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第II部、レッセフェール社会

第6章、 財産は問題解決の大御所

国の指導者を悩ます社会問題の殆どは、財産権で所有できる量と形式を増やすことで、かなり簡単に解決できる。これには完全所有権が一般に認められるという同様に大切な要件が伴う。所定の法規制に則った手続きの後、資産税を支払っている限り、これは「借賃」の形態であり、人が財産を管理、所有するということを政府が認可しているに過ぎないのであり、完全所有ではないのである。人が自分の所有物を政府から「借用する」ため資産税を支払う必要があるのなら、人は自分の財産権を完全に行使する自由を奪われていることになる。人が財産を所有しているにもかかわらず、人は政府が賃貸人となっている賃借人の立場に無理やり立たされている。この証拠に、もしある人が税を収めなければ、ちょうど大家が家賃を支払わない賃借人を追い出すように(それがその人の財産であって、政府の財産でないのにもかかわらず)、政府はその人の財産を奪いにくる。同様に、人がもし自分の財産の使用と維持について(他人への先制的な強制力の行使や詐欺のための利用を禁止する事項を除く全ての)法に従わなければならないのなら、やはり人は自分の財産権を完全に行使する自由を剥奪されている。人は人生の一部である自分の時間を使って財産を取得、利用、維持しなければならないので、自分の生命を完全に所有し管理する権利があるのと同様、(その財産を利用して他人を強要しない限り)その財産を完全に所持、管理する権利もある。財産に関する税や規制は、どんな形であるにせよ、己れの財産、言わば己れの人生、を完全に管理する個人の権利を否定している。それ故、財産に関する課税と規制は常に誤りなのである。税は窃盗であり、先制的な強制力による規制は奴隷制である。

政府に支配された社会は、財産の所有権を無制限に活用することが許されない。なぜなら、政府には課税する権限、規制する権限、時には(土地収用のように)政府が勝手にどんな物でも押収する権限までもあるためである。その上、潜在的に資産になりえる大半は、所有する事を許されていない。レッセフェール社会では、価値が認められ理性的に主張されれば如何なる物も所有され、その所有も完全である2525所有が共有される場合には、それぞれの所有者が財産全体の一部を完全所有し、それぞれの所有部分は他の所有者との自発的合意で特定される。

財産とは、所有されている物である。所有権とは、誰かが道徳的に主張する物について、所持、使用、または、処分する権利である。財産は、生産、他人との交換や贈与、或いは、所有されていない価値を主張することによって得られる。すべての財産は、元は所有されていない価値を誰かが主張して所有されるようになった。

所有されていない価値は、人が口頭で(または、書面で)主張すれば、その人の財産になるというわけではない。もしそうなら、今君が人類初で、「地球の海底全てと月面全ては私のものです。」と宣言したとしたなら、それがそっくり君の物になってしまう。明らかに矛盾や実施不能な主張で混乱を招く。

現実に基づいた主張とされるためには、口頭の主張の他に何かがなされなければならない。持ち運び可能なものなら問題ない。手や機械で運搬できるものなら、新しい所有者が他の財産の圏内(鞄や車や土地)に、ただ移動させることをすれば良い。新しく所有された物は、何らかの方法で印(所有者の名前や頭文字、シリアル番号、または、記号がよく使われる)を付け、所有権の証拠を更に明らかにすることもできる。

そびえ立つ木やダムや土地など、持ち運びが不可能な物の場合には、事情が変わってくる。全ての運搬不能な物は、土地とみなされる。なぜなら、それがたとえ土地でなくても、それがある土地と切り離すことが出来ないからである。運搬不能な物は持ち運べないので、実物のある箇所に所有者の財産である印を付けなければならない。運搬不能な物の場合、常に土地がある面積だけそのために占められているため、その土地にも印が必要である。

全ての土地は他の土地と隣り合っている(海や湖などの底にある土地も所有可能である故、島も含まれる)。従って、印を付けるのに最も大切な箇所は境界である、ということになる。これをするには、柵を設ける、一定間隔に標識を設ける、或いは、その他の方法で、所有が見て容易に分かる証拠をその土地に残せば良い。言うまでもなく、印を付けるのを上手くやればやるほど、主張の食い違いで問題が起きる可能性が低くなる。

食い違った主張同士は、仲裁業者に話が持ち込まれ、縛りのある調停をしてもらうことで解決される。争いの当事者は、争い相手がいる以上、売却することも、貸出すことも、土地に安全策を講じることさえもできないので、何れの当事者も争いを仲裁してもらおうとする。自由市場の仲裁業者は、商売を続けようと思うなら、精一杯できる限り公平に決定を下さなければならない。また、双方の争い人も仲裁業者の決定に従わざるを得ない。なぜなら、仲裁の結果に従うという契約を結んでおきながら、契約を破棄すれば、自分が信頼の置けない人間であることを世間に公表するのと同然となり、誰も事業取引をしようなどと思わなくなってしまうからである2626市場の力が争い人を仲裁へ駆り立て、且つ、仲裁の決定に従うよう駆り立てる事については、仲裁業者の特質と機能と共に次章で詳しく議論する。

相異なる主張をする人々が現れ、争いを公平な仲裁者に決めてもらうという現象は、「ある人が所有しているときちんとみなされるためには、その人は財産にどれだけ上手く印を付けなければいけないのか?」という質問に回答を与える。言うまでもなく、人が自分の財産を安全に守りたければ、主張を曖昧にして争い事が起きないよう分かりやすくきちんと印を付けた境界を(土地の場合)設けなければならない。仮に、ある野心家が、木の生い茂る山奥の土地を1キロ四方所有すると主張して、高さ1.8メートルの標識をその四隅に立てたとする。半年後、静養場所を探しにある学生がやってきて、4反の土地に柵を設たが、野心家の主張する土地と一部重なってしまったとする。更に、この主張の衝突が後に明るみとなり、争いが仲裁に持ち込まれたとする。この場合、学生の主張は野心家の主張より後にされているが、仲裁者は学生に有利な判決を下す可能性がとても高い。合理的に考えられる理由は、山の茂みに潜んでいる四つの標識に学生が気付かなかったとしても仕方ないと判断されるということであり、つまり、野心家の引いた「境界線」は、主張とみなすには不十分だったということになる。同様にして、ある人が新しい惑星に着地し、1キロ四方に柵を設けて、この惑星は閉じた球形をしているので、この柵の外側(即ち、柵で囲まれた1平方キロを除く惑星全て)が自分の土地だと主張したとする。しかし、その後、もし、その惑星の反対側に入植者の集団が着陸しその人と言い争いになったとしたら、(入植者らはその人の主張を知る由もないとみなされることから)どこの仲裁業者もその人のおかしな主張に有利な判決は出さないであろう。

境界の程度や種類と目印の付け方によって適切な主張の仕方も異なり、それぞれの主張はその特徴を基に個別の事情として判断されることになる。ただし、ぶつかり合う主張は全て仲裁者へ申請することができ、仲裁の公平性は自由市場の競争で保証されるという現象が、人のできる最大限の正義を保証する。

レッセフェール社会では不動産登記の分野を独り占めする行政府の存在はない。この分野は販売可能なサービスなので、自由市場の事業者らがこの機能を司ることになる。これを司る企業は、登記簿や台帳を作成し、会社によっては所有権保険業(今日既に専門の保険業で販売されているサービス)も営む。所有権保険は購入財産の欠陥によって生じる損失(例えば、死亡した前所有者の行方不明の甥がひょっこり現れ相続を主張するなど)から被保険者を守るサービスである。保険会社は所有の主張に矛盾がないことをしっかり確かめないで保証するようなことは普通やらないため、所有権保険は衝突する主張の問題を激減させる。自由社会では、所有権保険は被保険者への攻撃や詐欺が原因で生じた被保険財産の損失に対しても保護できるようになる。この場合、加害者は他の事件同様、処分を受けることになる(このテーマは第9章と第10章で取り扱われる)。

所有権の登記と所有権保険の分野で競い合う企業は何社も出てくるので、現在企業が消費者の信用貸し付け格付けについて詳細にファイル管理をするのと同様、所有権業も確実に、所有権の登記簿を中央のコンピュータで一括管理して効率化を図るようになる。このようにして、登記サービス企業同士は、今日の保険会社同士の関係と同様、企業間の競争相手同士となる。

所有権保険業者は競争相手を持つことから、良い評判を保つことに非常に神経を尖らせる。正直な人なら、不誠実な取引をすると噂のある業者に自分の財産を登録して、財産を危険に晒すようなことはしない。もしある人が悪徳業者と契約したなら、そのまわりの人や企業がその人の所有権の正当性に疑いを持つため、その財産を購入することや担保にすることをためらうようになる。完全に自由な市場では、企業は誠実に振る舞った方が得するので、通常、誠実に振る舞う。(不誠実な企業についての問題は第11章で扱う。)

昔からある名言によると、誰も所有したことのない価値を自分のものとするためには、「仕事を土地と混ぜる」必要がある、と説かれている2727名言にある「土地」は生産における天然の基本因子という経済的な意味で用いられており、不動産という常識的な意味はない。。だが、「仕事を土地と混ぜる」とは何を意味するのか説明できなければ、この名言は疑問を残す。どのような仕事を一体どれだけ必要とするのか?自分の土地に大きな穴を掘りその穴を埋め直したら、仕事を土地と調合させたと言えるのか?それとも土地に元と違った何らかの変化を加える必要があるのか?もしそうなら、どのような変化を必要とするのか?チューリップの球根を空き地に植えればそう言えるのか?ひょっとすると長寿のセコイアにした方がより望ましいのか? それとも土地の経済的価値を上げる必要があるのか?もしそうなら、どれくらいの期間内にどれくらいの価値を加える必要があるのか?2平方キロの土地の真ん中に小さな庭園をつくれば充分?それとも全面積を庭園にしなければいけない(それとも別の経済的手段に利用する)?10ヶ月以内に開通する鉄道の建設以前に土地の改善が進められないなら、その土地の所有権が失われる?もしその土地改良に10年かかるとしたら?持ち主が自然主義者で生態系の研究のため土地を元の完全な野性の状態に保存したいと思ったとしたら?

もちろん、目に見える改善を土地に施せば、所有権の証明がより明確になり、所有権をより確実にするのに役立つ。土地に何も改善を施さなければ、殆どの土地の場合、経済的な潜在価値は殆ど付加されないのも事実である(たとえ景色の良い自然が残された区域でも、道やヘリポート、その他の手段で観光客が訪れることができるようにでもしなけば、その土地からの利益は上がらない)。だが、仕事を土地と混ぜるという概念はあまりにも不明確で、所有権の基準として用いるにはあまりにも曖昧である。

新しく獲得した財産に単に境界線の目印を付けるだけで良いとすると、一部の野心家に本人が使い切れないほどの財産を独り占めにされてしまう、という反対意見がある。だが、どうしてこれがそんなにも問題なのか理解し難い。初めにやってきた人が野心的で、聡明で、敏速だったからこそ、誰よりも早く財産を手にすることができたのであって、その長所が故の報酬として、誰のでもない土地を手にすることが、なぜ否定されなければならないのだろうか?また、もしある人が広大な土地を手にしたとしても、無能か不精かで土地を生産的に利用しなかったなら、最終的には、自由市場の枠組みに沿って暮らす他の人が、その人の土地を買い取り、富を生産する土地に改善するようになる。土地が私有財産で市場が自由である限り、土地は最も生産性のある使われ方で利用されるようになり、評価額も市場価格まで押し下げられる。

無形財産もいろいろな方法で印を付けることが可能である。例えば、ある特定のラジオ波長の電波を所有したければ、対応する周波数で放送して所有していることを示すことができる(もちろん、放送する人に勝る者が誰もいなければの話)。発明としての思案は私営の「データ銀行」に発明の詳細を全て登録して所有権を獲得することが出来る。もちろん、発明の詳細や思考作業の工程、基になる考え方を明確に記載すればするほど、発明者の所有権がよりきちんと確立され、別の誰かが盗んだデータを基に偽の発明で横取りする確率をより低く抑えることが出来る。発明者は、考案した発明の所有権の登録を済ませた後、 盗作や許可を得ない商業利用による損害を補償する保険を(データ銀行の会社や別の保険会社から)購入できる。この販売によって保険会社は、認可の無い発明の商業利用を止めさせ、そのために被った損害を全て補償することを約束する。このような保険証券は多彩な保険期間で販売され、長期になるほど保険料は高く設定される。無期限の保険証券は経済的に不可能であるが、保険証券の期限切れと共に再契約することを約款で規定することも充分ありえる。

自由市場の社会の違いを更に際立たせるのが、財産になる潜在性のあるものは全て所有可能になるという事実である。今日の我々の社会では、実際には誰にも属さない潜在的財産が事実、莫大に存在する。このような所有されていない潜在的財産は次の二種類に分けられる。

  1. 1.

    法体系が財産となる可能性を認めないため所有されないでいるもの。

  2. 2.

    「公の財産。」

今日の法体系は、科学時代以前に定式化されているため、海以外の土地の所有は認識するが、海底の土地も所有できるとは認識しない。しかし、企業が海底油田の採掘をしているという事実が示すように、ただ単に海水に埋もれているからという理由で、土地を所有、利用してはいけないということにはならない。同様にして、湖底と、実のところ、湖自体も、個人または複数人で所有できる。河川や、家屋とその周辺の空域も、その更に上空の旅客機の定期便が利用する「航路」もまた潜在的財産である。

確かに、例えば、川の一部を所有する人の権利と、その川の上下流の所有者らの権利との関係はどうあるべきかといった問題があり、新しい取り決めが必要になるかもしれないが、楽曲に著作権があるように、音楽のような無形物でさえ人は所有できるのだから、河川も所有できて当然と言えよう!問題は、物の性質上の理由で所有不能なのではなく、法律体系が時代遅れの格式に囚われていることで、所有が禁止されているということにある。自由社会では、人が海底のある一区域を採掘、利用するのに、その土地を所有できるという法律を立法府で通過させるのを待つ必要はない。これは進歩と富の生産を妨げている巨大な障壁が取り除かれるという意味がある。

もう一種類の所有されていない潜在的財産が、一般に知られる所謂「公の財産」である。「公共の財産」の概念は、国王や諸侯が土地を所有し、その家臣らが「封土」としてその土地の一部を分け与えられていた時代の名残りである。封建制度と君主制度は徐々に民主主義に明け渡され、そのような皇族の財産は国民一般に帰属すると解されるようになり、政府が国民に代わって管理するようになった。

所有権には、他人に強要することを除いて、所有者が適当と思うままに所有物を使用し処理する権利がいつも必ず含まれている。国王は個人なので、国王の欲するままに王家財産を利用、処理することができたので、権限の行使は実際に可能だった。ところが、「公」は個人ではない。ある領土である時期暮していた個人全てから成る単なる人の集まりである。従って、「公」それ自体は精神や意志や欲求などを持ち得ない。決定も下せないので、どのように財産を使用、処理すべきかも決められない。「公の財産」とは実のところ虚構なのである。

その上、政府もまた「公の財産」を所有していると道徳的に主張することが出来ない。政府は何も生産しない。政府の持ち物は全て、没収の結果である。盗人が盗品を正当に所持するとは言えないのと同様、政府が所持している没収した富を政府財産と呼ぶのは誤りである。「公の財産」が公にも政府にも属さないのであれば、実際には誰にも属さないのであり、他の全ての所有されていない価値と同じ範疇に属するのである。この種の分類としては、公道や高速道、学校、図書館、全ての政府の建築物、政府保有の土地が含まれる。政府保有の土地は西部の多くの州の面積の大半を占めている2828「Statistical Abstract of the United States of 1969」によると、1968年6月期において、連邦(アメリカ合衆国)政府はネバダ州全面積の86.4%を『保有』している。

レッセフェール社会では、政府に「帰属して」いた財産は全て個人に所有され、生産のために利用される。このことがもたらす経済効果は以下の叙述で垣間見ることができる:

最近、(間欠泉や温泉などによる)高熱の地下水を利用して低コストの豊富なエネルギー供給源を開発しようと、企業数社が動き出した。地熱発電が実現しそうな候補地は数箇所あるが、殆どは政府の敷地内にある。ところが「公の財産」でそのような活動を許可する法律がないため、起業家は足止めを喰らっている!

レッセフェール社会が成熟して来ると、全ての潜在的財産が実際に所有されるまでに至ってくる。所有されていない潜在的財産や政府「財産」が所有されて行く過程で、現在の貧困層や国から見放された人々は、政府の各省庁に「所有」されていた地方の敷地や都市部の建物を「自作農場化」する機会に恵まれる。そうして人々は物を所有することの恵みを初体験し、他では学び取ることのできない、己れ自身と他人の仕事で作り上げる物の尊さを学ぶようになる。これを通して己れと他人を尊重する心が宿る。

完全な財産所有のこの様な情勢は、現在我々の社会を悩ましている多くの問題を自動的に解決してくれる。例えば、財産も一切無くお金も稼ごうとしない家賃を支払うだけの社会の無気力層は、社会の地理的領域の外へ文字通り追い払われてしまう。公園の所有主が浮浪者を入れないようにすれば、公園のベンチで外泊もできない。ある路地がある会社に所有されていれば、所有権侵害となるので、その路地でゴミをあさることもできない。浜辺が全て所有されれば、浜辺にルンペンもいなくなる。公の財産も公の失業手当もなければ、そうした望ましくない人々は直ちに「改めるか、出されるか」の選択を迫られる。

財産の完全所有権は、同様の理由により、犯罪率も引き下げる。道路を所有する私営企業は、酔っ払い、ヤクザ、その他の厄介者に来て欲しくないことを必要なら警備員を雇って通告するようになる。「スルーウエイ社は当該道路の安全を昼夜、日時にかかわらず保証します。女性の一人歩きも完璧に安心です。」というような宣伝さえありえるようになる。犯罪者らは、犯罪歴を理由にどの道路企業からも道路使用を拒まれ、犯罪を犯す機会さえ失ってしまう。その一方、私営道路企業は、道路を利用する人の服装や、「倫理観」、習慣、生活様式などを規制する事には全く関心を持たない。例えば、ヒッピーや、透け透けのブラウスやトップレスの水着を着る女性や、その他、多数派の価値観とは違った感覚の非攻撃的な人々を逮捕、詮索したりして、顧客を逃すようなことはやらない。顧客が通行料金を支払い、先制的な強制力を働かせず、交通の邪魔をせず、他の顧客を追い返すようなことを自重しさえすれば、企業は何の文句も言わない。人がこれさえすれば、企業は生活様式や道徳観などに全く興味を示すことなく、人の通行を丁重に誘う。

財産の完全所有の別の側面としては、入国管理法が意味を無くし、無用となることも挙げられる。実際にすべての潜在的財産が所有されたとすると、どのような「入国者」も、生活するだけのお金を持っているか、仕事に直ぐに就けるだけの価値のある技量を持っているか、自立できるまでの期間援助してくれる人がいるか、の何れかしかいなくなる。空き地でうろつくなどすれば侵入罪に問われる。技能を持ち野心ある者はやって来るが、不精者はやってこようとはしない。現在の「国別割り当て」制度よりこの方がはるかに正当且つ効率的である。

公害問題も完全解決に至ると言えよう。あなたに私の庭の芝にゴミを捨てる権利がないのと同様、もし私が私の家のまわりの空域も所有するなら、あなたには汚染物質をその空域に注ぎ込む権利も明らかになくなる。同じようにして、あなたは私の川を借用して下水を流してよいと明記された契約でもない限り、あなたには私の川に下水を流す権利はない(その契約には私が所有する箇所から下流にある側の川の所有主全員から承諾を得る必要である)。公害は既に多くの地域で問題になっているので、財産を新しく購入する人は、平均汚染度までは許容することに承諾し、他人がする汚染で平均値が悪化することを拒絶できる権限を持つことを理解した上で購入しなければならない。つまり、初めのうちは、昔から存在する業者は平均値を悪化させる汚染をしてはいけないが、新しく参入する業者は汚染を全くしてはいけないということになる。しかし汚染の制御方法や装置が普及し安価になるに連れ、昔からの業者は、汚染物質を放出しない新産業に雇用を奪われないようにするため、汚染を削減し、除去さえしようとしてくる。競争のあるレッセフェールな自由市場環境では公害問題は長続きしない。そうした社会環境を政府体制は破壊しているのである。

現在の大多数の人の考えとは裏腹に、天然資源を節約する唯一の実現可能な方法は、財産の完全所有権にある。資源の節約については誤った考えや不明瞭な考えのお陰で、問題がことごとく曖昧にされてしまった。例えば、市場は残り少ない資源を浪費しており、将来の世代が使用する分を奪っている、ということが強調されている。だが、どこの資源なら使っても良くて、どこからだとただの浪費だと、どういう基準で決めるのであろうか?もし、資源を使って消費者に価値のあるものを僅かでも作ることがいけないことであるのなら、資源を使ってそういったものを作る事自体は良い事だなど言える訳がない。また将来の世代もまた将来の世代を理論的には無限に抱えているのであって、もし天然資源を将来の世代に残さなければならないのなら、資源を使う事自体諦めなければならない。残り少ない資源の問題を解決する唯一の方法は自由市場で自由な取引をする人々に任せることである。そうなれば、可能な限り最も価値生産性の高い方法で、且つ、消費者の望む割合で、資源が利用される。その上、自由市場で刺激された技術は、天然資源を利用して新しい天然資源を発見するのが常である。これには、新たに発見される巨大油田のように、それまで重要視されていた資源の発見などにとどまらず、以前までは価値の無かった資源の利用法の新発見なども含まれる。するとある分野で利用されていた貴重な資源が別の新資源で置き換えられ、貴重な資源は実質的に保存される。この実例としては、限られた資源から生産される鋼鉄やその他の金属が、多分野でガラスや合成樹脂に置き換えられていることが挙げられる。

天然資源の莫大な浪費を阻止するには、「欲張りの」資本家の支配を「公共の精神を持った公務員」へ明け渡さなければならない、といったような妙な誤解がある。政府役人がやる仕事の性格をきちんと考えてみれば、この考え方が愚かな誤りであることに直ぐに気が付く。

天然資源(またはその他)を支配する権限が政府役人に幾らかでもあるのなら、役人は準所有権を持つことになる。しかし、その準所有権はその役人の職務期間終了と共に終わる。役人がその役職で稼ごうとするなら、役職の利権をフル活用しないといけない。政府役人が管理するものを手当たり次第搾り取ろうとすれば、可能な(もしくは、人目に付かない)限りの速さで資源が消耗されていく。私有財産なら所有主は財産を好きなだけ所有でき、好みの市場価格の時に売却できるので、現在と将来の財産の価値を確保しようと普通努力する。所有主にとって自分の投資を守ることは利己的な関心事であるため、所有主こそ、限りある資源を保護するのに最も適した人物なのである。政府役人にとっては、資源を守っても何の報酬も出ないが、横領すれば大きな儲けになる。政府役人は限りある資源を守る最悪の管理人なのである。

完全所有制で最もよく保全が期待できる資源として、野性や景色の良い娯楽地域も挙げられる。公園やキャンプ場、野性保護区、狩猟地、天然風景などに対する消費者需要は娯楽様式研究で明らかにされている。自由市場の社会では、消費者の需要とちょうどかみ合うだけの土地がそうした目的に利用される。

財産の完全所有権は人間が理性的な生き物2929人間が理性的な生き物であるとは、単純に、人には理性的に考え行動する能力があるという意味である。だからといって人が自動的に理性的に考え行動するという意味にはならない。人がそうするためには自分でそう選択しなければいけないからである。人の意識は意志的であるため、人には、1、選択しない、2、考えない選択をする、3、考える選択をする、自由がある。生存するためには、人は考えることをしなければならない。これを選択する事はそれぞれの人が個別に独立して一人で独自にやらなければならい。考えるか否かの選択は個人のみにしかできない。社会に考える脳はない。として道徳的に生存するための必要条件である。人が自分の財産を所有する権利(自分自身を所有する権利から始まる)に理解がなく、権利に制約があれば、人は人らしく生きることができない。(実際問題として、財産を所有する権利がないなら、生存自体不可能になる。) 自由な社会での財産の完全所有制、即ち、財産を所有する権利が一般に理解され尊重されている社会、は(今日のように)正義が例外的である環境とは逆に、正義が支配する平穏な環境を作り出す。正義を育む環境は、代わりの価値を与えずして価値を誰一人として正当に受け取れない(これは、経済的価値だけでなく、愛や敬意のような精神的価値も含む)、という道徳律、「価値と価値の交換」の原理に基づいて作られる。一部の人は、受け取る価値全てに何らかの支払いをしなければならない、という考えに衝撃、或いは、恐怖までもおぼえる。例えば、道路の使用は税で支払う方が良い(この方が明らかにもっと高くつくにもかかわらず)と思っているようで、あたかもただで使用している気持ちになれるからである。よく調べてみると、こういった人々は、通常、自尊心を欠いていることが明らかになる。その自尊心の欠落は、自分に能力と価値が見出せず、誰も苦労せずには生存できない世界で、自力で生活していける自信がないと密かに自覚もなく感じている事にある。しかし、このような心理的問題が人にあろうとも、現実は変わらない。即ち、人が他人を道徳的に扱う唯一の方法は、価値を享受するため価値を供与することであり、苦労しないで価値を得ようとする者は寄生生物である、という事実は依然変わらないのである。自尊心のある者はこれを悟り、受け取った価値の代わりに価値を支払うことができることに誇りを持つ。

前章と本章で触れてきた内容の考察から、政府の無い自由市場の社会では、その性質により、その世界に生活する人々の信頼性と、誠実性と、生産性が育成されて行く様子が見えてくる。これにより社会文化全体の道徳的気風が大幅に改善し、犯罪率は激減する。だが人間は意志的な意識を持つ生物であり、従って、しようと思えば非理性的行動を自由に採れるため、理想郷のような社会はありえない。自由市場の社会は、依然として、争い事を仲裁し、生命と財産を保護、防衛し、不正を是正する手段を確保しなければならない。政府が無いならば、このようなサービスを供与する設備が市場から自然に現れる。以降数章で自由市場の環境下におけるこの様な設備と機能を考察して行く。