侵害(犯罪)の処理は歴史を通して常に処罰の手段によってきた。ある人が社会に対して罪を犯せば政府は社会を代表してその人を処罰しなければならない、と古くから考えられてきている。ところが、処罰は誤りを正す原則に基づいておらず、犯人に「苦痛と損失を味あわせる」だけで、実際には復讐である。この復讐の原理は、「私の価値する物を壊したなら、あなたの価値する物を壊します。」という意味で用いられる、「目には目を、歯には歯を」の故事に表れている。今日の刑罰学ではこのような要求はもはやしないものの、目や歯の代わりに、犯罪者の命(死刑)や人生の一部(投獄)又は財産(罰金)を取るようになった。直ぐに気が付く通り、復讐の原理に基づいていることに変わりなく、被害者そして犯罪者の価値の二重の損失を余儀なくしている。犯罪者が保有する価値を壊しても、無実な被害者の損失の償いには何一つ寄与せず、ただ破壊を繰り返すだけであるため、復讐の原理は正義を蔑み、実のところ正義に反する。
ある人の侵害で無実の人が所有する価値を失わせたり傷つけたり壊したりした場合、正義は加害者にその罪を償わせることにあり、加害者の人生の一部を「社会」が没収するのではなく、その損失と侵害で生じた直接的な出費の全て(加害者を逮捕するために費やした費用など)を被害者へ返済することにある。被害者の価値を破壊することで加害者は被害者に負う債務を生み出したのであるから、正義の原則により、負債は返済されなければない。正義の原則が働いていれば、価値の損失は一度切りであり、被害者はこの損失を当初我慢する必要があるものの、究極的にはこの負担は原因を作った加害者が負うべきものである。
ある人が社会に対して罪を犯すと社会の代理として働く政府がその人を罰しなければならないという信仰には誤謬がまだある。それは、社会がある生命体で、従って、これに対して罪を犯すことが可能であるという前提である。社会とはこれを成す個々の人々の集合でしかなく、そうした個人以外存在せず、そうした個人と異なる存在もない。 罪は常に一人以上の人間に対して犯されるのであって、「社会」として知られる実体のない無形概念に対して罪は犯せない。たとえある特別な犯罪で社会の全構成員が被害を受けたとしても、その罪は社会に対して起こされたものではなく、あくまで個人に対して犯されている。なぜなら、個人のみが区別可能な独立した個々の生命体だからである。個人に対してしか犯罪は犯せないので、犯罪者が「社会に債務を負う」ことや「社会に負債を返済する」ことは不条理である。即ち、被害を受けた個人に対してのみ、犯罪者は債務を抱えるのである。
全ての紛争は加害者の個人と被害者の個人との間で起こる。社会も社会の中の集団も紛争とは直接利害関係を持たない。犯罪を広げないために正義が勝利することを見届けることはその社会に住む全ての正直な人々の共通の関心事であることは確かである。だが、この関心事はその特定の犯罪にあるのではなく、社会全体の構造が犯罪行為を予防しているのかどうかということに関してである。犯罪で起こったある特定の紛争の解決に関する問題と、正義のある社会構造を維持することとは直接的な利害関係はない。
社会に対して罪は犯せないのであるから、政府を犯罪を罰する社会の代理と捉えることは誤りである。また、政府を社会に属する住民の代表と捉えることにも問題がある。なぜなら、住民は政府が代表であると明記した契約書に承諾する手続きを全く踏んでいないからである。従って、政府の役人が紛争の仲裁者及び不正の是正役に指名される正当な理由はどこにもないのである。
確かに我々は、政府の刑事処罰に慣れ親しんでしまっている。このため、多くの人々にとっては、これが「普通」で「理に適って」いるように見え、他の方法で罪を処理することはすべて奇妙で疑わしいように見える。しかし、偏見のない目で事実を調べてみれば、政府の司法体系は実は道理によっているのではなく、むしろならわしだと分かる。
ある特定の犯罪人を成敗することは、「社会」の利害にも政府の利害にも合理的には関係ないとすると、誰の利害と関係するのだろうか?言うまでもなく、被害者である。次いで、被害者の家族、友人、商取引相手のように、被害者の幸福を己れの価値にしている人々である。正義の原則によれば、侵害行為で損害を被った人は(加害者の負担で)賠償されるべきである。従って、損害を被った人達こそ、加害者を成敗することに利害関係を持つということになる。
被害者が道徳的に加害者を成敗し賠償を請求できる理由は財産権に依っており、財産権は生存権に依っている。被害者の財産であるものはあくまでも被害者の私有財産で、強制力を行使して加害者が所持するようになったとしても、その所有の事実は変化しない。加害者が財産を所持していても、道徳上権利は所有主にしかない。例証:例えば、君が建物から歩いて出てくると、見知らぬ人が君の車の運転席に座り、車を走らせようとしているのを、君が目撃したと仮定する。この人を力尽くで車から引きずり下ろし車を取り返す権利が、君には道徳上あるだろうか?はい、あります。なぜならば、泥棒の一時的な占有は車が君の財産という事実に何の影響も与えないからである。泥棒は先制的な強制力の代替手段を行使して君の車を盗もうとしているので、君が報復的な強制力を行使して車を取り戻すことは道徳的に正当である。
泥棒を即座に取り押さえるのではなく、自分の車を二つ目の交差点に至るまで君が追いかけ回すはめになったが、泥棒が踏切で足止めを喰らったおかげで、ようやく車に追いついたと仮定してみよう。泥棒を車から引きずり出し、車を奪回する権利は君にまだあるだろうか?はい、あります。なぜなら、時間の経過は君の所有する権利に何の影響も与えない。
泥棒は逃走してしまったが、二ヶ月後、泥棒が君の車から降りるところを君が街で目撃したと想定してみよう。君は確認のためシリアル番号を調べ確かに自分の車であると知った。その車に乗って逃走する権利は君に道徳上あるだろうか?はい、あります。同じく、時間の経過で君の所有権が変わることはないから。
君自身ではなく、君が車を奪回するよう頼んでおいた私立探偵が、君の車から泥棒が降りるのを目撃したと想定してみよう。君と同じように、君の代理人として働く探偵にも、君の車を取り戻す権利がある。
泥棒の乱暴な運転で君の車のヘッドライトと前のフェンダーが潰されていた。修理に出すと150ドルかかった。泥棒からこの費用を徴収する権利は君にあるのか?はい、あります。君はこの犯行の歴然とした被害者である。加害者の泥棒は、犯行から生じた全ての費用を支払う義務を道徳上負っている。
要約:財産の所有権は、盗難されても変化せず、時間の経過も影響を与えない。他人の財産の盗難や損傷、破壊は強要の行為と同等とみなされ、被害者には財産を奪回するための報復的な強制力を行使する道徳的権利がある。その上、この強要の行為で生じた全ての費用を賠償金として徴収する権利もある。被害者は代理役を雇いそうした権利を自分の代わりに執行してもらうことも可能である。
侵害行為は被害者ばかりでなく被害者と親密な関係のある人々にもしばしば損害が及ぶ。例えば、ある人が襲われ重傷を負えば、その人の家族は心配するだけでなく出費も嵩む。もしその人がある事業の中心的な人物だったとすれば、雇用者や取引先、或いは、その人の会社が経済的な損失を被る。 この価値の破壊の全てが加害者の非理性的行為の直接的結果であり、行動には結末が常につきまとうことから、加害者には犠牲者が受けた直接的被害ばかりでなく、そうした二次的な損害にも償いをする責任がある。ただし、そうした二次的な損害賠償には現実的な限界がある。まず、損害賠償で見込める額がある程度多額でない限り、費用や時間、手間をかけてまでそのような請求を初めから誰もしないということがある。第二に、損害賠償で徴収出来る総額は加害者の支払い能力によって限られ、犠牲者本人への償いが最優先するということがある。簡単のため、ここでは犠牲者の損害だけを論じる事にする。ただし、犠牲者に適用される原則や考察は、侵害行為で直接的に重い被害を受けた他の人にも全て当てはまる。
加害者から賠償金を徴収する過程で、犠牲者(又は代理役)が加害者の持ち物を無闇に又は乱暴に破壊することや、元の財産(又はその相当額)と侵害行為で生じた費用の合計を超える額を取り去ることは許されない。もし犠牲者がこれをやれば加害者に負債を抱えることになる(加害者が犠牲者の財産を手放すことを拒んで喧嘩になり、やむを得ないかたちで加害者の持ち物が壊されれば、もちろん、この限りではない)。
告発を受けている加害者が、自分は無罪だとか、被害者の請求する損害賠償額が高すぎるとか主張する場合、双方の間に争いの状況が生まれ仲裁が必要になってくる。このような仲裁が起こる条件や、その裁定に紛争当事者双方へ拘束力が及ぶ理由、そして、市場がその正義を保証する仕組みについて、これから考察してみる。
レッセフェール社会では、保険会社は侵害行為で損害を被る場合に備えた保険証券を販売する(保険料は対象となる資産とリスクの度合いに基づいて決められる)。殆どの場合、加害者が費用の大部分を負担することになるので、加害者が見つからないときや逮捕されないとき、又は、賠償金の返済終了前に死亡したとき、或いは、賠償額が高過ぎて一生かけても支払いが困難なときにしか保険会社は損失を出さない。保険会社は殆どの損失を取り戻すことができ、また、自由市場の社会では侵害行為は遥に稀になるため、強要損失保険の保険料は低価格に抑えられ、殆ど全ての住民が加入するようになる。このため、これからの議論は主に、侵害行為の犠牲者が強要損失保険の加入者の場合について進めて行く。
侵害行為にあった被害者は(現場での自己防衛が不可能、又は不適当だったと仮定して)普通できるだけ早く保険会社に通知する。会社は直ちに調査班を派遣して、被害者の情報を確かめ被害の見積もりに入る。被害額が確認されると、会社は保険にある約款に従って犠牲者に補償額を全額支払う。また、顧客に良い印象を与えて売上を伸ばすため、例えば、犠牲者の盗まれた車が返って来るまで代車を貸すなどして、犠牲者の手間を可能な限り最小限に食い止めようとする(政府下の警察署がこのようなことをしたためしがあるだろうか?)。
証券の規約が執行されると保険会社は損失を回復すべく、代位により生じた権利を行使して、加害者を突き止め逮捕を試みる。この時点で犠牲者は事件から開放されるが、後に仲裁の法廷で証人として出頭を迫られる可能性はある。
保険会社は加害者を逮捕するため必要なら探偵も使う。自前の探偵を使うか、他社の警備サービス業に頼むかは事件の事情がどちらに向いているかで決まる。しかし、言うまでもなく、競争で生き残って行く警備会社は、保険会社の子会社であろうと、保険会社数社と取引のある独立系企業であろうと、今日の政府の警察と比較すれば、犯罪の解決と犯人逮捕の仕事を遥に効率的に進める。自由市場では競争が選りすぐりへとせき立てる!
加害者を逮捕すると保険会社の代表は全ての被害と経費の請求書を加害者に提出するが、代表団はまずはできるだけ穏便に事を運ばせようとする。これは、強制力の行使は労力と資源を非生産的に消費するため、市場が極力避けたがるからである。代表団は初め加害者との和解に努める。もし加害者に明らかに罪があり損害賠償額が適切なら、この和解に合意し仲裁を避けるのが加害者にとっての最善の道になる。仲裁裁判に敗訴すれば仲裁の費用も嵩むからである。
告発を受けている加害者が無罪を訴えるか、請求書の額について争う構えで代表団と合意しなかった場合、契約上の紛争と同様に、この問題を拘束力のある仲裁に提出する必要性が生じて来る。紛争当事者双方とも仲裁してもらった方が自分側に有利と判断するため、拘束力のある仲裁への申請を強制させる法律は必要ない。また、市況の構造が権利を保護するため、権利を法律で保護する必要もない。 例えば、保険会社は充分な証拠もないのに人をわざわざ告発することはしないし、人が仲裁を要求したのに無視するようなこともしない。もし、保険会社がそのような誤りを犯せば、被告側は、無実なら尚更、会社を告訴して、元の告発を取り下げさせ、被害を会社に請求することが出来る。会社に対する告訴の仲裁を会社側は拒むようなこともしない。拒めば会社の評判に大きな傷がつくからである。経済的なゆとりが個人や会社の評判にかかっている自由市場の環境下では、過失や不信、不公平などの不評はどのような企業であろうと致命傷になる。
ここで注意しておかなければ成ならないことがある。人は有罪と宣告されるまでは無罪と常に推定される、という陪審制の観念は不合理で、場合によっては全く愚かしいということである。例えば、数百万人のテレビ視聴者の目の前で、ある人がある政治家の暗殺を図り、拳銃を手にした犯人がその場で取り押えられ、その映像で多くの人が犯人をきちんと特定できたとしたなら、この事実をとりあえず無視して陪審員が判決を下すまで犯人を無罪と推定するのは間抜けであろう。立証責任は常に告発側にあり、疑わしきは断定せずの精神で常に被告側を扱うべきではあるが、明確な判定ができる充分な証拠がない限り、人は有罪とも無罪とも推定されるべきではなく、証拠が現れたときに事実の示す通りに推定はされるべきであろう。仲裁の判断が必要になるのは、証拠が不明瞭なときや、偏見のない第三者の助けがないと争いに決着がつけられないときに限られる。
被告側は自分の無実を明かにしたいときや、罪を重く見られ過ぎていると感じるときに仲裁を求める。仲裁が無ければ、容疑通り請求額を清算しなくてはならないからである。被告人は仲裁を通して、無罪を証明して損害賠償を免れるか、有罪でも賠償額にある程度文句をつける事が出来る。もし無実なら被告は仲裁を尚更歓迎する。自分の面目を保つことができるばかりでなく、保険会社から不便を被った分も支払ってもらえるからだ(これによって被告に課せられた不正が是正される)。
被告人に関わる全ての人は、それぞれが自分の行為に責任を持っており、政府の警察や看守がやるような法的免除を盾にした責任逃れは許されない。このことが無実の人が濡れ衣を着せられる可能性を更に確実に抑え込む。負債を返済するまで拘置所で働く囚人がもし無実なら、その囚人はその拘置所の所有主からも人権侵害の罪で損害賠償を請求できる。拘置所の持ち主がこのことを初めから承知していれば、囚人の罪に充分納得しないまま囚人を受け入れるようなことはしなくなる。
従って、市場は、阻害されなければ、この分野でもやはり同様に、政府や法の制定に頼ることなく、不条理や不正が不利になり抑え込まれる状況を自動的に生じさせるのである。
保険会社と被告は紛争当事者として仲裁業者(当事者らが上訴を想定する場合は複数)の選択に同意し、裁定には拘束力があることを契約する。仲裁業者の選択に一つも同意することが出来ないときには、それぞれが別々の仲裁業者を指名し、二つの仲裁業者が共同審理することになる。この場合、当事者が共同判決に不服を申し立てる場合に備え、第三の最終法廷を両仲裁所が前もって選定しておく。ただし、この様な過程を採れば費用が嵩む可能性がある。
保険会社は仲裁審理前と進行中(お粗末な政府より市場は常に効率が良いので、審理はせいぜい数日間程度で終わる)、警備会社に被告人を拘留するよう命令することが出来るが、次の二つの要因を考慮する必要がある。
被告人が無罪と示された場合、保険会社と警備会社は幽閉した罪で被告に損害賠償を負う。たとえ被告が有罪判決を受けたとしても、状況を逸脱した過剰な強制力を行使すれば賠償責任を負わさせる。政府公務員でないため、自分達のする行動で起きた結果に法的免責はない。
監禁には費用がかかる。監禁するには場所、壁、監視が必要になる。これらの理由から、警備会社は被告人が逃げ隠れしないための拘束をできる限り簡素化する。
被告人の有罪、無罪を確定し、損害賠償額を決定するのは仲裁業者の仕事になる。仲裁者は、侵害が起きたときの正義の原則に則って審議を行い、損害賠償額を設定する。その原則は加害者が被害者の被害を人間の力で可能な限り償う必要性から成る。どの侵害の件も、人、行動、事情が異なり、それぞれが固有の事象であるため、制定法や司法事例ではなく、それぞれの事件の事情に基づいて損害賠償額が査定される。侵害には多種多様な事象が含まれ、幅広いとはいえ、経費要素がいくつか存在し、その要素の組み合わせで損失額が割り出され賠償額が定められる。
基本経費要素は盗難や損傷、破壊による財産の費用である。今だ所持している盗難品があれば加害者は返還を求められる。テレビのような取り替え可能な品を破壊した場合には、犠牲者が買い替えに必要な額を支払う必要がある。買い替え不能でも市場価格のある品を破壊した場合(例えば、モナリザのような有名な美術品)、同じものを購入することは不可能であるが、それでもその市場価格分を支払う必要がある。ここでの原則は、たとえ取り替えることは絶対にできないとしても、被害者が盗難にあう代わりに売却したと仮定し、被害者が経済的に損を被っていないようにすることである。正義は加害者が被害者に人間の力で可能な限り償うことにあり、取り替え不能な価値を取り替えることは無理である。
盗難や破壊された財産のような基本経費要素に加え、侵害の行為はいくつもの追加的経費の原因になり、加害者はやはりこれにも支払い責任を負う。加害者が外回り営業の人の車を盗めば、その人はかなりの商いを失うため、経済上の追加的経費となる。強姦魔が女性を殴って襲えば、怪我の治療のための医療費の支払いと勤務先で失われた労働時間を賠償する責任ばかりでなく、精神と身体の両方の苦痛にも賠償責任を負う。また、被害者に負債を負うばかりでなく、間接的に被害を受けた人々(例えば、被害者の家族)にも二次的な賠償金を負うこともある。侵害行為それ自体が生じさせたこうした経費に加え、加害者の逮捕や仲裁に伴う費用にも責任を持つ。
仲裁業者のサービスは正当な裁定をすることである。また、仲裁業者が市場で競争する基準は正義である。そのため損害賠償額が市場価格に沿った公正な水準となるよう仲裁者はあらゆる努力をする。例えば、警備会社が加害者逮捕の経費に異常に高額な請求をすれば、仲裁者はその高額請求を加害者に課すのを却下する。すると警備会社は自らの経費の無駄遣いを他人のせいにできず、自腹を切らざるを得なくなる。
被告が一生かけても支払い切れない程損害賠償額が高額になった場合、保険会社と他の告発者等は被告が返済できる見込み総額で妥協する事になる。こうするのは、損害賠償額を被告が払い切れない程にすれば、被告が働いて返済して行く気力を失ってしまい、原告側には何の得にもならないからである。 ここで頭に入れておかなければならないのは、労働者の働いて生きて行く気力を損ねることなく給料のかなりの割合を長期に渡って差し引くことが可能であるということである。今日、一般の平均的なアメリカ人は優に三分の一を超える所得を税金で奪われ、残りの人生もこの傾向が続くと見込まれている。にもかかわらず、政府の「福祉」手当で生活する人はまだ少数派である。
侵害行為で壊されたり傷つけられたりされる価値の多くは、取り替え不能であるばかりでなく取引不能でもある。つまり、価値によっては市場で取引できないため、その価値に金銭的な値段が付けられない。取引不能の価値の例としては、生命、手や目、家族の生活、人質に取られた子供の安全等がある。取引不能な価値の賠償金を決める問題に突き当たると多くの人々は、「でも、人の命に値段なんて付けられるの?」と直ぐ聞いてくる。保険会社が二万ドルの生命保険証券を販売するのと同様、仲裁業者が命の喪失の賠償額を決めるのに、その命に金銭的な値段を付けようとしているのではない。それは事情の許す限り最大限に犠牲者(または犠牲者の遺族)を償おうとする努力に過ぎないのである。
生命や手足の喪失に損害賠償額を設定しようとするとき、損失したもの(取引不能)と支払われるもの(金銭)との間で価値の種類が異なるという問題を抱える。この二種類の価値を同じ基準で計るのは不可能である。壊された価値は、同様な価値で置き換えることが出来ないばかりでなく、何が同等なのかさえ定められないため、相当する金額でさえ置き換えは不可能である。だがそれでも金銭的な支払いが償いを行う現実的なやり方なのである。
不可能は誰にも出来ないのであるから、加害者が人間の力で可能な限り被害者に損害を償う必要性から正義が成り立っているということを覚えておくと便利である。市場価格の定まる品が壊されたときでさえ、いつも置き換えることができるとは限らない(例えば、モナリザの肖像画)。不可能を正義に必要とすれば、正義が不可能になる。破壊された価値を等価なもので置き換えることがいつもできるとは限らないからといって賠償制度を受け入れようとしないのは、患者が病気以前の健康を取り戻すことは必ずしも可能ではないからといって医学を受け入れないようなものである。正義は、医学同様、状況によるべきもので、どんな状況にあろうとも不可能を要求すべきではないのである。従って、課題となるのは、仲裁者が命や手足に値段をどうやって付けるのか、ではなく、むしろ、「過剰賠償で加害者を不当に扱うことなく、人の力で可能な限り被害者が適正に償われるようにするには、仲裁者はどうすべきなのか?」である。
適正な賠償額を探る仲裁業者は、宣告を言い渡す裁判官のようにではなく、争いを自分達で解決できない人々をなだめるような調停役のように振る舞う。損害賠償額の最高額は、言うまでもなく、加害者の返済能力、即ち、加害者が働いて暮らす気力を失う一歩手前の額である。最低額は経済的損失の総額である(不安や苦悩、手間のような取引不能の価値に対する償いをする必要がないとき)。賠償額はこの幅広い両極端の間のどこかに設定されなければ成らない。仲裁業者の役割は、紛争当事者らがこの両極端の範囲内で額を適正に定めることを援助することであり、取引不能の価値に金銭的な値段をつけるというような不可能な仕事を成し遂げることではない。
取引不能の価値に見積もられる賠償の額には非常に幅広い可能性があるが、仲裁業者はその額を自分達の思い通りに決めるわけにはいかない。仲裁業者は自由市場で競争する私営事業者であるため、侵害行為の「値段」も、他の価格と同様、市場の行動が制御し管理する。仲裁業者も含め自由市場の商売は、顧客が競争相手の代わりに自分の商品を選んでくれない限り生存、繁栄できない。仲裁業者が紛争当事者全員から選ばれたということは、同様の紛争における裁定の前例が競争相手の前例より当事者双方の目から見て優れていたことを意味する。顧客や潜在的な顧客の大多数の目から見て、賠償金額をいつも高く付けたり或いはいつも低く付けたりする仲裁業者は直ぐに仕事を失い、消費者の需要に合わせて金額を調整しなければ倒産してしまう。賠償金額の水準で消費者を怒らせる仲裁業者は(消費者を喜ばせない他の業種の商売と同様)こうして淘汰される。商売を続けようとする仲裁業者は消費者の需要に沿って賠償額の水準を調整する。様々な取引不能の価値の損害賠償額は、比較的短期間の内に、かなりよく標準化されてくる筈である。これはちょうど様々な保険の補償額や料金に相場ができるのと似ている。
取引不能の価値に賠償額が自由市場の動きに従って設定されて来る仕方は、市場で任意の相場が決まるのと非常に良く似ている。物事の性質上、金銭的な価値を固有に持つ物資或いはサービスは存在しない。ある品にある特定の金銭的価値があるのは、その値段が買い手が自発的に買い取る値であり、売り手が自発的に売る値段だからである。「価値」とは市場でその品を取引する人々にとっての値段のことなのである。 取引する全ての人々が値段を決める。同様にして、仲裁業者のサービスを購入する人々が賠償額の水準を決める。それが侵害への公正で適切な償いとみなされる水準である。現実の市況以前にその水準の相場がどうなって行くのかを予想するのは無理であるが、自由市場がどのように営まれて行くのかについての知識を生かせば、消費者の要望に沿って市場が決めることになる位は予想が付く。
それぞれの損害賠償請求は、取引可能と取引不能の様々な価値の賠償が複雑に組み合わさって為される。例えば、もし暴漢が人を殴って百ドル盗んだとすれば、その加害者は、百ドルを返すだけでは済まされず、被害者の治療費と喪失した稼ぎ、苦痛や後遺症の償いにも賠償金を求められる。もし被害者が職場の重要人物なら、被害者の職場に支障をきたした分も支払う必要がある。同じものを壊しても人によって受け止め方が全然違ってくるため、各々の賠償請求は大変独特な問題でもある。指を喪失することは誰にとっても悲劇であるが、コンサートをするプロのピアニストの方が会計士よりその衝撃は遥に厳しい。賠償請求は複雑で独特なことから、侵害行為で生じた被害の公正な賠償とは一体何なのかという難題をきちんと解決できるのは、競争のある自由市場の仲裁業界だけである。
殺人は性質上その行為の加害者が負うことになる債務を犠牲者が全く徴収できない、と言う意味で特殊な事件である。だがそれでも加害者は負債を生じさせており、債権者(犠牲者)が死んでも、債務は無効にならないし、返済も免除にならない。この点については、加害者が殺しをしないで重傷を負わせた場合について考えてみれば直ぐに理解できる。その場合、犠牲者に負わせた怪我や喪失した労働時間、身体的障害等々に加害者は賠償をしなければならない。だが、加害者が負債を返済し終わる前にもし犠牲者がその怪我で死亡したとしても、この時点で加害者がその債務から放免されるということにはもちろんならない。
ここで負債の実の定義について思い出しておくと便利である。負債とは、道徳上はある人が所有しているが、実際には或いは潜在的に他の人が所持する財産のことである。加害者が犠牲者を襲うことで生んだ負債は、犠牲者が命を落とさなかったなら犠牲者の所有する財産であったはずであるから、犠牲者の死でその他の財産と共に犠牲者の遺産となるため、相続人の財産になる。
犠牲者の遺産として負う直接の債務に加え、加害者は犠牲者の死で直接的に被害を受けた全ての人(犠牲者の家族など)にも債務を負う。このことは、そのような人達が相続人であったとしても揺るぐことはない。(相続人は犠牲者が生きていれば犠牲者に支払われたはずの賠償金を相続するからと言って、この負債を相続人に支払わないのは、犠牲者のそれ以外の遺産を相続するのだからといって支払いを拒むようなもの。)
ここでたとえば、家族も友人も強要損害保険もなく、果物の収穫で生計を立て放浪する愛想のない老人を、ある暴漢が殺害したと想定してみる。犠牲者本人以外誰も本人の存在に価値を見出さず、犠牲者の財産を引き継ぐ相続人もいないので、加害者は罪を免れることができるだろうか?そんなことはない。加害者はそれでも相続人がいるときと同じように犠牲者の遺産に債務を負う。ただ、異なるのは、相続人がいないと遺産(侵害行為で生じる負債も含む)が所有主のいない潜在的財産になるということにある。我々の社会では、所有主のいないそのような潜在的財産は、殆どの他の所有されていない資産同様、政府が直ちに収用してしまう。この様なしきたりは、政府が全ての財産の元の本当の所有主であり、個人が財産を保有できるのは政府が情やからかいで許可を与えているだけに過ぎないと仮定しない限り正当性がない。自由市場の社会では、所有されていない資産は、手間暇をかけて初めに所持するようになった者が所有主になる。加害者が犠牲者の遺産に負う債務についていえば、これは、労力と費用をかけて犯人を探し出し、必要なら仲裁の専門家の前で犯人の有罪を証明した者に、その負債を徴収する権利が正当に与えられることを意味する。これを執行する機能は個人やこの目的のために建てられた特殊代理店(この様な代理店の商売が成り立つ程その様な事件が頻発するとは考えづらいが)、警備会社、及び、保険会社に任される。暴行事件を抑え顧客に良い印象も与えるので、この様な侵害行為の処理は保険会社の仕事になる可能性が最も高い。
加害者が損害賠償を支払わざるを得なくさせる方法についての議論に移る前に、強要損害保険に加入していない被害者について簡単に考察してみる。サービスの需要が生じれば必ず市場はそれを満たそうと動き出す。このため、保険に加入していない人でも、警備業や仲裁業のサービスを受けることが可能である。ただし、正義への工程については同様であるものの、先見の明に欠けたお陰で不便がいくつか発生してくる。
保険加入者でない場合、被害者は賠償金を直ぐに受け取ることができず、加害者が支払うまで我慢しなければならない(加害者が負債を直ぐに返済できるほどお金を所持しておらず、返済が分割払いになれば、何年も待つ必要がある)。また、加害者が捕まらない場合や、返済を済ませる前に死亡した場合、又は、負債が巨額過ぎて一生かけても支払い切れない場合、損害賠償金の全て又は殆どを諦めざるを得なくなる。その上、犯人逮捕の経費は、仲裁が必要なら仲裁料も含めて、犯人の返済終了まで全て自己負担を強いられる。
こうした金銭的な不便に加え、余計な手間もかかってくる。もし被害者が賠償してもらいたいと思うなら、犯人を捜し出し逮捕することを本人自身でやるか、(大抵)警備会社に依頼しなければならない。仲裁も自分で手続きしなければならなくなる。これら全てを考慮に入れると、強要損害保険は非常に加入し甲斐があり、殆どの人が加入するようになるのはほぼ確実であろう。