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第II部、レッセフェール社会

第11章、 内部抗争する警備業界と組織犯罪

政府の無い社会では、社会全体を覆う単一組織がないため、圧倒的な合法的強制力で侵害行為を防げることが不可能となり、警備会社間の戦国時代がやってくる、と言う主張がレッセフェール社会に反対する人々の間から出ている。(彼らの意見では)そうなれば、正義ではなく暴力がはびこり、血なまぐさい争いで社会は荒れ果てる、ということになる。しかしこの意見は、少なくともある条件下に置かれると、私有警備サービス企業家は、市場手段ではなく強要的な手段で目的を達成した方が自分達の得になると判断する、と決めつけてかかっている。更に又、主張の中では述べられていないものの、政府公務員は、強要を阻止するばかりでなく、先制的な強制力の行使をいつも自ら自重している(或いは、介入されない市場が生じさせる無秩序より、政府が先制的に行使する強制力の方が望ましい)、といった意見が暗黙の内に仮定されている。

後者の暗黙の仮定は明らかに根拠がない。(第4章で示した通り)政府は強要的な独占であり、その存続のため先制的な強制力の行使をせずにはいられず自制が効かない、という背景があるからである。それでは、最初の意見はどうであろう?自由市場の価値を保護する体制は、競合する警備会社間の抗争を招くことになるだろうか?

「戦国時代」の反論については、競合する政府制度を推奨する理論を批判して述べられてきている。政府に適用されている限り、この反論は正しい。政府は、強要的な独占であるため、存在するという単純な事実から、常に先制的な強制力を行使する立場にある。従って、政府間の紛争がしばしば戦争の形をとるのも当たり前である。何れにせよ政府は強要的な独占であるため、複数の政府が同じ領域を同時に占領するという考えは愚かしい。ところが、レッセフェール社会で関与するのは、政府ではなく自由市場下にある私営事業である。

各々の行動はある特定の帰結を伴い、行動の性質と行動が行われた環境がその帰結の性質を決定する。レッセフェール社会で自由市場の警備会社が侵害行為を働いた場合、その帰結とは如何なるものであろう?

例として、オールドリライアブルという警備会社が財布を盗まれた顧客に頼まれ、会社の遣いの者が依頼者の近所を洗いざらい探したと仮定する。そして更に、その使者が抵抗を犯罪の証拠とみなし、抵抗した者を銃で射ったと仮定する。

この侵害行為で生じたまず最初の帰結は、遭遇した抵抗の規模と与えられた事情の中で、警備会社が目的(この場合、財布をその他の損失と共に取り戻すこと)を達成できたかどうかである。だが、これは直接的に生じたいくつもの重要な帰結の初めの一歩でしかない。

オールドリライアブル社はこの侵害行為で報復的な強制力の標的となる危険な立場に置かされるばかりでなく、厳しい業界追放の的にもなる。つまり、全ての誠意のある生産的な個人や事業者は、この業者は仕事上の意見の隔たりを理由に侵害行為を働くかもしれないと恐れるため、直ぐにオールドリライアブル社から関係を断つことになる。また、たとえオールドリライアブル社とよい関係を保てたとしても、この事件に憤りを覚える被害者が報復的な強制力を行使してきたときに、巻き添えになる危険性が出てくる。

その上オールドリライアブル社の顧客と取引先が直ちに関係を断ち切る更に重要な理由がある。先にも記述した通り、レッセフェール社会では、好評判は個人や事業者にとって最も信頼の置ける資産になる、ということである。自由社会で悪い評判を抱えれば、顧客や取引相手、信用を得るのが困難になり、手頃な保険料で保険にも加入できなくなる。これを知りながら、自分の評判に傷を付けてまで、侵害行為の犯人と何らかの関係を持とうとする者はどこにもいない。

完全に自由な経済で大変重要な分野を担う保険業界が、加害者から関係を断ち、事業の影響力で対抗措置を取ろうとする動機には特別なものがある。侵害的な暴力は価値の喪失を招くため、保険会社はその損失の大部分を背負う。野放しにされている犯人は生きたリスクであり、保険会社は元の事件からどれだけ離れていようとも、自分の顧客が次に襲われる害を被るようなことはできるだけ避けようとする。また、犯人に関係を持つ者は、他の暴力事件とも関わっている可能性が高いため、保険のリスクも高くなる。おそらく保険会社は、関係者が起こしかねない将来の事件による被害を最小限に抑えようとして、そうした人々の保険の加入も断るはずである。 たとえ保険会社にこの様な先見の明がなかったとしても、暴力を振るう傾向があることによる余分なリスクを背負わされるのを避けるため、保険料を大幅に割増するか、保険を全て取り消しにせざるを得なくなる。競争のある経済では、犯人とその関係者をそのまま加入させておいて、その費用を真面目な他の顧客に転嫁するような保険会社は生き残れない。そのようなことをすれば、保険料の安い他のもっと評判のある会社に顧客を直ぐに取られてしまうからである。

自由経済で保険の適用を失うとどうなるのだろう?たとえオールドリライアブル社(または他の個人や事業者)が他社からの先制的或いは報復的攻撃から防御できる充分な守備を整えていたとしても、その営業はいくつかの経済的必須項目を欠いて続けなければならなくなる。まず、自動車事故や自然災害、契約上の争いから守る保険に加入できなくなれば、会社の資産を事故で失っても損失の請求が出来なくなる。消火活動を行う企業は火災保険を扱う保険会社と自然な結びつきがあるため、消防のサービスが受けられなくなる可能性も充分ある。

侵害行為を犯せば自然と生じてくる業界追放で厳しい仕打ちを受ける他、オールドリライアブル社は社員でも問題を抱えることになる。政府職員は、法的な保護のおかげで、途方もなく露骨な犯罪行為は例外として、「公務上」の侵害行為に個人的責任を負わないで済む。警察官、裁判官、税務署員、麻薬捜査官等は、先制的な強制力を行使しても責任を免れ、「法を作ったのは私じゃない。法を守らせただけだ。」とか「それは陪審員が決めることだ。」とか「この法律は国民から正式に選ばれた代表が制定したもの。」のような決まり文句で許されてしまう。ところが、自由市場におかれた警備企業の社員には報復的な攻撃からの法的保護は何もないため、自分の行動には自分で責任を取ることを覚悟しなくてはならない。もし警備会社の社員が意図的な先制的強制力の行使を含んだ内容の命令を実行したとすれば、その従業員と命令した上司や経営者は、その命令と意図的に関わった他の職員と共に、命令で起こした損害の責任を全て取らされることになる。誰にも「制度」のせいにできないため、真面目な社員なら先制的な強制力を伴う命令には絶対に従ったりしない(また、真面目な経営者もその様な命令を下したり、従業員のその様な行為を認めたりしない)。従って、オールドリライアブル社がもし社員を維持できたとしても、もしくは辞職した社員を新社員で補えたとしても、とんでもないバカか、犯罪者と関わっても何も失うものがないほど落ちぶれている者位しか集まって来ないため、社員は間抜けか不良で我慢せざるを得なくなる。

レッセフェール社会では、侵害行為を犯した警備企業は、不正を即座に是正しない限り、顧客も取引先も失い、使えない社員を除いて職員も立ち去ってしまう。すると、レッセフェール社会にいる犯罪者らは、被害者の報復から身を守るために、「マフィア」警備企業を経営することができるのだろうか、という疑問が沸いてくる。

その様な「マフィア」警備企業とその顧客の性格を隠密にしておくことは不可能であるため、その企業のサービスを購入する者は自ら明らさまに加害者であると名乗る者位しかいない。この公の加害者は、真面目な人間なら誰も商売付き合いしようとしないため、侵害行為だけで生計を立てていくしかない。また、暴力行為を継続的に行う人を守る経費は極めて高く付くため、そのような加害者がいるとすれば、財政的に大変裕福なはずである。

従って、その様な「マフィア」警備企業の顧客は、一世を風靡している公の加害者に限られると結論してよいであろう。加害者一人でそれだけの資産を蓄えるのはまず不可能であるため、このような人間がいるということは、「大親分」の下で働くかなり組織力のある大掛かりな暴力集団の存在が前提となる。つまり、「マフィア」警備企業を安定に維持させていくには犯罪組織の存在が必要になる。

そのような犯罪組織は、様々な分野で活動できるが、基本的には闇市での活動に依存する。闇市とは法が禁止する市場分野を言う。もし禁止がなかったなら、売り手と買い手が平和的に自発的な取引をする分野である。ところがその分野で人の正直な取引を政府が禁止して強制力を行使し始めると、官僚の御触書や政治家の制定法を破るリスクを敢えて負おうとする人間に機会が与えられてしまう。闇市にまつわる暴力や詐欺は、販売される物資やサービスの性質から発生してくるものではない。これは、この分野での事業者の取引が法的に禁止されてしまったことで、法を敢えて無視して暴力を振り回してまで逮捕されずに売買を強硬する連中に市場が任されてしまうという事実から生じる直接の結果なのである。禁止がなければ、全ての市場は先制的な強制力が働かない自発的な取引に基づいて営まれる。なぜなら、これが事業を成功に導く唯一の方法だからである。強制力の行使は労力の非生産的消費なのである。

闇市の実例にうってつけなのが1920年代のアメリカの禁酒時代である。政府がアルコール類の製造と販売を禁止すると、法に従おうとする人間はこの市場分野から人為的に締め出された。それでもまだ市場には需要があるため、多くの犯罪者が寄り付きだし空白を埋め始める。米憲法の禁酒修正条項によって生まれた闇市の下で、マフィアを含む多くの暴力集団がはびこり、実力のある巨大組織に育て上げらた。こうした犯罪組織の多くは我々の世に今だにはびこっている。禁酒法の廃止でかなりの基盤が失われたものの、賭博や売春など、他の政府禁止分野に活動拠点を移して生き延び続けているからである。(禁酒法撤廃を猛反対した二組織は、キリスト教禁酒婦人連合3232【訳注】原文は、「Women’s Christian Temperance Union」である。とマフィアであったと言う事実は興味深い。)

犯罪組織が闇市を活動拠点にしなければならないのにはきちんとした理由がある。富は自然には存在せず、生み出す必要がある。富を生み出すには価値の製造か物資やサービスの自由取引をする以外方法が無い。人が富を得るには、生産的な活動で直接的にするか、又は、生産者から略奪して間接的にするしかないが、富の存在があるためにはまず初めに生産によって生み出される必要がある。略奪者は自分で富を生み出そうとしない寄生生物であり、生み出される権力も生産者の支えに依存する。つまり、長い目で見れば略奪は儲かる仕事ではない(平和主義のような偽りのイデオロギーや、自衛行為が法的に禁止されているなどの理由で、生産者が武器を所持できない状態にはないという条件下で)。富と権力の源を握っているのは生産者であり、武器を取り上げられていない生産者と略奪者と間の闘争は、長い目で見れば、富と権力の面から必然的に、生産者が優勢なのである。

組織的な暴力集団が比較的洗練された大規模構造を侵害行為だけで構築することができない理由がここにある。リスクがどうしても利益を上回るのだ(競争のある自由市場で価値の保護がサービスとして販売されている社会では、このことは特に著しい)。こうした暴力集団は、闇市での生産や取引を通して、富を直接獲得しなければ、生き延びていけない。だから、犯罪組織の存続は闇市にかかっている。そして、闇市は政府が禁止する結果である政府が原因の闇市がなければ、犯罪者らは構造のある巨大組織を賄うための生産と取引の分野を失い、個人か小集団でまばらに行動するしかなくなる。従って、当然、レッセフェール社会で犯罪者らが「マフィア」警備企業を賄うのは到底不可能なのである。

ここで注目して置きたいのは、今日の我々の社会では、犯罪組織の繁栄の大部分は、政府の殆ど全ての公務と組織の親分との間の同盟関係で成り立っているということである。地方の巡査に贈賄する五十ドルから、上院議員への選挙資金一万ドルまで、犯罪組織は政府との対立をしばしば金で逃れて組織力を保持している。レッセフェール社会では、犯罪者はまばらで、脆弱で、組織力がないばかりでなく、自由市場が提供する護衛を買うことや仲裁業者を金で釣ることさえ殆ど不可能になる。警備会社の顧客は、その業者の従業員が犯罪者から金を受け取っているのを知れば、その業者と付き合い続ける必要はなく、他の警備企業に頼むことができる。つまり、国民には絶対にできなかったことを自由できるのである。たとえ自由社会の「闇世界」が矮小で取るに足らなかったとしても、自由市場の業者が闇取引をすれば、政府とは異なり、ただでは済まされない。マスコミが怪しい取引を暴けば、顧客は立ち去り、犯罪者は商売が続けられない。何せレッセフェール社会の犯罪者らは弱小過ぎて「マフィア」警備企業を養えないのだから。

だがたとえ「マフィア」警備企業が自由市場社会に存在できないとしても、ある品行方正な警備企業が独占の地位を築き、後に圧政的なやり方で権力を振るい出す可能性はないだろうか?作る人もいれば、それを壊そうとする人もいるので、どんな社会構造でも潰れる可能性は勿論ある。野心家が自由社会を乗っ取って暴君となるためには、どのような障壁を克服する必要があるのだろう?

その野心家は将来利用する警備企業をまずは乗っ取らなければならない。その警備企業はかなり強い軍事力を持つか、それだけの実力を持っている必要がある。だが、たとえ野心家がその事業の経営、株式、銀行口座を乗っ取れたとしても、政府が官僚や軍事力を支配するのとは、同等にならない。なぜなら、従業員が命令に従って強要的行為を働いても、報復からの免責を従業員に保証することができないし、もし従業員が命令に逆らったり、おののいて従わなかったりしても、(政府が徴兵された軍人に行うように)従業員を取り押さえることさえできないからである。

ところが、たとえこの野心家がずる賢く巧妙で、従業員の忠誠を勝ち得た、或いは、何を企んでいるのか悟られないようにできたとしても、その野望への道のりはまだ序の口に過ぎない。野心家の企てが実現できる程まで権力を持つためには、独占又は独占に近い状態を達成させる必要がある。これを成し遂げるには、この分野で最も有能且つ優秀な実業家になるしかやりようがない。そしてたとえ独占状態を達成したとしても、他の大企業が高い利幅に目を付け多角化目的で参入して来るのを食い止めるため、その卓越さを持続させる必要に迫られる。つまり、圧政の企みを推進するのに必要な武器や兵力を購入する資金を蓄えるには、顧客にサービスを高値で販売するわけにはいかないということになる。

実際、野望への障害になるのはおそらく従業員よりむしろ顧客の方であろう。政府のように顧客に税を課すこともできないし、少なくとも独裁を達成するまでは、自社のサービスを無理やり購入させる事さえできない。市場での関係は自由関係であり、顧客がもし、企業のサービスを好まない、或いは、企業の意図に疑念を抱くなら、取引先を変えるなり、競合する企業を自分で起こすなり、サービスを誰にも頼まないで自分で賄うようにするなり、各人の自由にできる。また、熱狂的な愛国心や服従などの国民の精神に染められていないため、(「国の団結」みたいな)馬鹿げた集団主義的努力に顧客を誘い込むのも一段と難しい。バカや臆病者のように「旗を守れ」や「大義のために犠牲になれ」などの言葉に従う習性が自由な人間にはない。このような極めて大切な局面において自由市場体制は政府体制の類とは全くの根本的な違いがある。

野心家は、政変の準備が整うまで、完璧な極秘の下で軍事力を築こうとするかもしれないが、これも一筋縄では行かない。まず、銃、戦車、航空機、船舶、ミサイル、その他最新鋭の軍事装備を購入するため資金調達を行う。次に、そのような装備を探索し、購入又は製造させる取引をする。そして、多くの兵士を雇い、武装させ、何ヶ月も訓練させる。ただし、特ダネを探して目を光らせるマスコミが絶え間なく嗅ぎ回る中、これら全てを極秘に行う!この様な事を信じられる者がいるなら、その人の空想力はそれこそ並大抵ではない。

暴君への恐怖は正に現実であり、歴史を顧みれば当然のことであろう。だが、上述の考察から分かるように、これは自由社会よりむしろ政府の営む社会に当てはまることである。暴君に乗っ取られるという異論は実は政府擁護論を崩壊させる議論なのである。