人同士が付き合うと、仲たがいや争いが起こる可能性が常にある。先制的な強制力が全く無い場合でも、契約の条件と履行についてや、財産の真の所有主についてなどで、二人の意見がすれ違うようなことが起きる。一方が他方を騙そうとする争いなのか、それとも双方とも(もしくは全員が)完全に誠意を込めて主張している争いなのかにかかわらず、公平な仲裁者の拘束力のある調停が無い限り、争いが収まらないことがある。社会にそのような仲裁機関がもし存在しなかったなら、そうした争いは暴力による解決しかありえなくなる。道理は人が満足に意思疎通を図れる唯一の手段であるが、この場合、少なくとも一人の人間が道理を捨てる。そうなれば、人間関係はごく限られた間柄を除いて危険過ぎて寛容が効かなくなり、社会経済は紛争と疑念で埋没し、文明が崩落する。
争い人を法廷へ駆り立て法廷の判決に従わせる法の拘束力と、全国民に単一の上訴のための最終法廷がなければ、争い事を満足に解決するのは絶対無理だからこそ、社会秩序を維持するためには政府が必要になるのだ、と「限られた政府」を唱える人達は強く主張する。また、政府役人や判事は通常の市場から隔離されており、下す判決に干渉を与えるような利害関係を持たないため、他の人々より公平である、とも思っているようである。
政府制度を唱える人々が先制的強制力(政府の法制力)を社会的な紛争の唯一の解決方法と見ているのは興味深い。こういう人々によると、全国民が同じ司法体系を強制されなければ、特に、上訴の最終法廷が同じでなければ、争い事は解決されないという。争いをしている人々は自分らの好みの仲裁者を最終仲裁を含め自由に選べることができ、その最終仲裁者は社会にある争い事を最終的に全て受け持つ機関である必要はないということを、どうやらこういう人達は思い浮かべる事ができないらしい。もし争いをする人々が競争する仲裁業者の中から選択することができ、その競争と専門性の恩恵を受けることができたなら、どんなに素晴らしい仲裁が実現しえるのかということに、全く気が付いていないのである。 制定法の強制力によって独占が保証されている司法体系が行うサービスと、顧客獲得のために競争しなければならない自由市場の仲裁業者が供与するサービスとでは、質の上で比べるまでもない。また、複数の仲裁業者の存在は専門化を容易にするため、専門分野で争いをする人は、その分野に長ける仲裁を頼めるため、その分野に殆ど無知な人の判断を無理に仰ぐ必要も無くなる。
しかし、争っている当事者(特に無頓着な人や不正直な人)を仲裁に具申させ、仲裁者の判決に強制的に従わせる法的機関がなければ、仲裁手続きはすべて水の泡になってしまう、と政府制度擁護派は主張する。確かに、争いをする双方または片方が仲裁を免れることができるか、仲裁の判断を無視できるなら、手続き全てが意味を持たなくなる。だからといって、争い人が仲裁の判決を拘束力のあるものと受け止めるには、先制的な強制力の制度が必要だということにはならない。理性的な利己の原理は、包括的な自由市場の基礎を成し、その目的を大変効果的に達成させる。偏りの無い仲裁者の判断に従うと契約をしておきながら契約を破棄すれば、その人は明らかに信頼の置けない人間で、商取引上もリスクが大き過ぎて誰も相手にしなくなる。自分の理性的利己に従って行動する正直な人間は、自分の取引相手の経歴を調べ、そのような人とは付き合わないようにする。政府の無い社会では自分で生産するか他人と取引するかしなければ、人は何も得ることができないため、このような商取引の非公式ボイコットは極めて効果的に働く。
業界から追放される圧力が仲裁の判決を遵守させる十分な保証になりえない場合がたとえあるにせよ、契約破棄者を罰するためには政府が必要だということにはならない。第9章と第10章で示す通り、自由な人々は自由市場中にいるなら、契約破棄する人々や強要で他人を傷つける人々等に対して、正当に対処する能力を充分保持している。侵害的な暴力に対処するために侵害的な暴力を制度化する必要性は全く無いのである!
争い事に政府仲裁を推奨する意見の内で多分一番論破しやすいのが、「政府の裁判官は、市場に無関係に仕事をしてるので、利権に左右されず、より公平な判断ができる」という主張である。まず第一に、自給自足する仙人以外、市場と全く無関係に生きることは不可能である、ということが言える。市場とはただ単に取引の組織網で、連邦判事でさえ自分の生活を改善するため他の人間と取引をしている(もしそうしなければ、我々が金銭の代わりに様々な用途の品々を恵んでやらなければならなくなる)。 第二に、政府に政治的忠誠を負っていることは公平さを保証することでは明らかにない!ということである。政府判事は政府から給料と権力をもらっているのだから、政府側に有利な不公平な方向へ常に駆り立てられている!一方、自由市場で自分のサービスを売る仲裁者は、周到に可能な限り公正でなければ、争い人がサービスを買いにやって来ないことを理解している。自由市場の仲裁者は裁定する技量と公正さに生活がかかっているのに対し、政府判事の生活は政治的コネにかかっている。
先制的な強制力の行使と詐欺の件(これらは後の章で取り扱う)を除いて、人々の間の争い事は主に、紛争当事者間の契約上の問題で起きる紛争(契約内容の解釈や適用についての意見の食い違い、または、故意或いは不注意による契約違反の申し立て)と、当事者間に契約関係のない紛争の二つに分類される。レッセフェール社会では契約は非常に重要であるため、契約上の紛争を先に考察する。
自由社会は、特に工業化が進んだ自由社会はそれこそ契約社会である。契約は全ての商取引の真に基本となる要素であるため、契約がきちんと尊重されなくなれば、ちょっとした商売でさえ直ぐに成り立たなくなる。(巨大産業同士の百万ドル単位の売買だけでなく、個人の職、貸しているアパート、分割払いで買う車も、契約上の境遇に置かれている。)これが契約を保護するサービスの大きな市場を生み出すが、今のところこの市場は政府に占拠されている。レッセフェール社会では、保険会社と組になった専門の仲裁業者がこの市場に最善の寄与をすることが予想される。
自由市場の社会では、個人や企業が契約上で揉め事を起こし自分達だけでは解決不可能と判断すると、仲裁業者に依頼して拘束力のある調停をしてもらうことが最善の策と考えるようになる。紛争で仲裁業者の選択にも揉めることを防ぐために、契約を交わす当事者は通常、利用する業者を契約締結時に指定しておく。この業者が契約のどのような紛争にも裁定を下し、契約的な拘束力で判決に従わせる。契約の当事者が契約締結時に利用する仲裁業者をあらかじめ選んでおかなかった場合でも、紛争が起こってから業者の選択で合意できれば、業者の選択はまだ可能である。言うまでもなく、仲裁業者は紛争関係者全員に裁定に同意することを承諾させるので、後になって関係者が判決に不服になっても業者に責任を問うことはできない。
問題を委託する仲裁業者を一つだけ選んでさえおけば、より経済的であり、大抵の場合それで充分である。ただし、当事者らが上訴が必要になるかもしれないと感じ、余分にかかる費用も惜しまないならば、二つまたはそれ以上の仲裁業者を予備選定しておくことも可能である。この場合、業者の名前を「第一次法廷」から「最終法廷」の順で契約書に列挙する。最終法廷が今日の合衆国最高裁判所のように社会にただ一つだけである必要もなければ望ましくもない。そうした強制的な画一化は常に不正を助長する。どのような契約でも仲裁業者を指定できるようになれば、契約当事者のだれもが独自の仲裁業者を(もし二つ以上指定するのなら最終法廷も含めて)選択するようになる。こうなれば仲裁が必要な人々は、多種多様な仲裁業の専門化と競争の恩恵に預かれる。仲裁業の業者は価格とサービスの質を武器に競争し合わなけばならないので、業者間の競争の結果、誠実さに徹底した裁定を非常に速やかに可能な限りの最低価格で言い渡すようになる(正義をしばしば弁護士の技能と運に頼るしかない、古くから続く政府の司法体系とはかなりの違いである)。
仲裁業者は、政府法廷が一般市民を陪審員に雇うようなことはせず、仲裁を専門に行う職人を雇い入れる。仲裁の専門家から成る仲裁委員会は、現在の市民陪審員の「無知×12」と比較すれば、相当な能力の集結になる。仲裁の専門家は、その道に長け、紛争を審理し正当な裁定を言い渡して来た職歴の持ち主である。学歴では、技師や医師のように、厳密な訓練を専門で学び、大抵、論理学、倫理学、心理学、更に、紛争が起きそうな専門を要する分野等で基本的知識を習得してきている。専門家であっても間違いは付き物であるが、今日の素人陪審員や政治的判事と比べれば、取るに足りなくなる。また、客観的な審判を出す目的で審理する場合でも、今日の市民陪審員と比較して、圧倒的に適任であるばかりでなく、贈収賄に誘い込むのも格段に難しくなる。「八百長」しようとする仲裁委員は、他の経験豊かな鋭い委員に直ぐに気づかれてしまう。たとえ贈賄額がかなりであったとしても、報酬の良い非常に尊敬される職を危険に晒す程の愚か者はまずいないであろう。
正義は、結局のところ、経済的商品であり、教育や医療と変わらない。正義を言い渡す能力は人と境遇を評価する技量と知識にかかっている。この技量と知識は勉学でしか得られない。これは、医学的診断ができるようになるまでには医学的な知識を学ばなければならないのと同様である。その技量と知識をある人は努力して身につけて仲裁の職人としてサービスを売り、このサービスが必要な他の人達は進んで買いにやってくる。正義は他の商品やサービス同様、経済的価値を有する。
専門職としての仲裁者が市民陪審員と比較して卓越している理由は、それぞれの道徳的基本理念を調べてみると直ぐに見えてくる。市民陪審員の「奉仕」は国家または国民への責務を果たすという概念が基本になっている。この理念は、個人が集団に属するという非理性的で不道徳な信念の表われに過ぎない。一方、専門職としての仲裁者は、本人の得意とするサービスを自由市場で販売し、その力量の度合いで利益を上げる商人である。
仲裁業者は自由市場で商売を行うので、利益を上げるには顧客を引き寄せなければならない。だから、業者を訪れる全ての紛争当事者をできるだけ丁重に思いやりをこめて扱うことが業者の利益につながる。政府の判事が権威的な態度を取り、紛争当事者の気持ちや利益を殆ど或いは全く汲み入れず勝手な判決を宣告するのと対照的に、仲裁業者は、紛争当事者双方が満足できる解決にできるだけ近くなるようあらゆる努力をする。仲裁業者の提案する解決法にもし紛争当事者が賛成できないならば、仲裁業者はまず分けを説明して説得しようとする(これをするにはそもそも初めから道理のある解決法でなければならない)。仲裁業者と紛争当事者間の契約条項を盾に仲裁の拘束力を発動させるのは、あくまで最後の手段である。仲裁業者は、強要では無しに、サービスの良質さで顧客を獲得するため、宣告を告げる判事というよりは、争いをなだめる調停役のような振る舞い方をする。
保険会社は、新しい分野の事業を求めて契約保険を提供するようになり、おそらく個人や会社の殆どがこのサービスを利用すると予期される。(実は、契約の金銭的価値を保証することは現在でも通常化している。殆どすべての分割払い契約には債務者の死亡やその他の理由による債務不履行に対応する保険がかけられている。)この保険は契約批准時に契約当事者へ売られる。保険会社は、契約不履行が起きた場合、それで生じた損失を被保険者に補償する前に、このことを契約が指定する仲裁所へ提出しなければならない。この理由により、契約保険の事業と仲裁事業との間には密接な関係が生じてくる。恐らくは、仲裁業の一部は保険会社の補助機関として、他は独立の企業として経営されるようになるであろう。
仮に、ハンディダンディという台所器具を発明した人がいたとして、その人がある冴えない工場の主人とその台所器具製造に関する契約を結び、契約保険に加入したと想定してみよう。その後、その工場主が特許権使用料支払いを避けるため、その台所器具の設計を変更して自分の発明として製造、販売したとする。発明者は工場主と話をしたが聞き入れてもらえなかったため、この不満を契約を保証した保険会社に届け出る。すると保険会社は契約で「第一法廷」に指定されていた仲裁業者に審理を依頼する。ここで争いが仲裁の専門家に提出され裁定のための審理を受ける。(仲裁者の人数、仲裁者が複数の場合は仲裁委員の構成についても、あらかじめ契約書で明示しておく。)
仲裁者が差し出す裁定にもし発明者も工場主も満足したとすれば、その裁定に従って争いは解決される。もし発明者か工場主が裁定に納得せず、不満側が判決を覆せる自信があるなら、契約書で指名された次の仲裁業者へ上訴できる。上訴を受けた仲裁業者は、不満側がその判決を覆すのに十分な証拠を提示できる可能性があると判断すれば、その争いの審理に了解する。これは「最終法廷」の指名がある仲裁業者まで繰り替えされる。
契約が故意、或いは不注意によって破られたなら、これにまつわる正義の原則に則り、契約を破った当事者は契約が破られたことで関係者が負った損失分(額はあらかじめ契約に明示されている額を基に仲裁者が決定する)に仲裁費を加えた額だけ関係者全員に賠償しなければならない。
もし上訴を受けた最終仲裁業者が工場主が発明者との契約をやはり破棄していたと裁定したとすれば、仲裁者は賠償額を事実にできるだけ沿った値に設定する。即ち、できる限り客観的に額を決めようとする。もし工場主が支払いをしようとしないか、支払いが出来ない、或いは、直ちに支払わないなら、保険会社が発明者にその額を(保険証券の約款の範囲内で)補償することになる。保険証券の条件に従って発明者にその額が支払われたとすると、保険会社は代位の権利を得る。即ち、発明者に代わって賠償額を徴収する権利が保険会社に発生し、工場主は発明者にではなく今度は保険会社に賠償を負う(ただし、保険会社が発明者に支払った額では補いきれなかった損失分については、工場主から賠償を直接徴収できる正当な理由が発明者にはまだある)。
もし発明者が工場主との契約で保険に加入していなかったとしても、以下の二点を除いて上述の工程に変化はない。
仲裁業者の審理並びに賠償受け取りの手続きを全て発明者自身で行わなければならない。その上、工場主が返済し切るまでの間、費用を全て自己負担しなければならない。
発明者は自分の損失を直ぐには償ってもらえず、工場主が支払うまで待たなければならない。もし例えば工場主が杜撰な経営で破産して月賦払いするようなことになれば、数ヶ月、或いは、何年も待つことになる。
契約破棄を犯した者がその不適切な或いは不注意な振る舞いから起きた損失の大部分を償うことになるので、火災や事故の保険とは対照的に、保険会社は契約保険適用でも大きな損失を出さなくて済む。最小限の損失だけが保険証券加入者に転嫁されることになり、契約保険の契約料はかなり低く抑えられる。契約保険は非常に便利で安く済むことから、殆ど全ての重要契約が加入する標準的な保険となる。
保険会社(契約が保険に加入していない場合は被害者側)が道徳的且つ実践的に負債を徴収するために必要な工程について考察していく前に、「負債」それ自体の概念について調べておく必要がある。負債とは、ある個人が他の個人に負う支払う義務を伴った価値のことである。以下のような条件で負債は生じる:
ローンでの購入のように自発的な合意によって、或いは、窃盗や詐欺によって、ある個人が正当に所有する価値を他の個人が所持する。
ある個人が他の個人が正当に所有する価値を破壊する。
負債は債務者の意図的な或いは不注意な行為の結果である。即ち、債務者は負債を抱える意図がなかったとしても、自発的にある行動を取り、或いは、(今日「過失犯」と呼ばれる場合のように)取るべき行動を取り損ね、他人が所有する価値を失わせる結果を直接的に生み出してしまったときに生じる。事故や天災のような不慮の或いは避け難い事情からは負債は生じない。(このような場合には、保険会社は、今日の保険会社がするのと同様、被保険者を補償し、保険証券加入者に損失を転嫁する。)
負債が生じた場合、債権者が正当に保有する財産の価値を債務者は実際に或いは潜在的に所持している。即ち債務者は以下の物を所持している:
元の財産。例えば、支払いが滞っている分割払いで購入した冷蔵庫。
債務者が元の財産を処分または破壊してしまった場合は、元の財産に相当する金額。
元の財産分の(または少なくともその一部の)支払いを可能にするお金を稼ぐ能力。
債務者は債権者が正当に所有する価値を実際に或いは潜在的に所持しているので、債権者には自分の財産を再所有する権利がある。しかも、債務者の正当な財産を奪ったり壊したりしない限り、債権者にはどのような手段を講じてでも再所有する権利がある。もし債権者が自分の財産を徴収する過程で債務者の正当な財産を損失させたなら、債権者と債務者の関係は逆転して、債権者が負債を抱えることになる。
ハンディダンディ台所器具の話において、保険会社が工場主の負債を徴収する件に戻ってみる。代位の権利により工場主の負債額は保険会社の財産とみなせるため、保険会社にその財産を再所有する権利が発生する。工場主に支払い能力があるのなら、保険会社は工場主と協議して直ちに支払ってもらうか、分割払いにしてもらえる。だがもし工場主が支払いを拒否したなら、保険会社は工場主が金銭的関係を持つ個人や会社と話し合って負債の徴収をはかどらせる手配をすることも権利として可能である。例えば、工場主が預金する銀行と相談して了解を取ることが出来れば、工場主の口座から適当な額を差し押さえることもできる。雇われている人の場合には、その人の雇い主の了解を得ることができればその人の給料から負債分を差し引ける。現実的に見て、殆どの銀行は保険会社と協力する方針を取る。なぜなら、正当な申し立てに逆らって口座を保護する方針を取れば、得てして信頼できない客を引き寄せてしまい、銀行業務の費用が嵩み、料金の値上げで補わなければならなくなるからである。雇用主については更にこれが当てはまる。正当な申し立てから従業員を保護することを保証する条項を雇用契約書に加えることによって、信用の無い労働者を引き寄せてしまうことに、大抵の雇用主はためらいを感じる。
とはいえ、このような思い切った徴収の手段を講じる必要は殆ど無い。大抵の場合、保険会社が直接的な報復行動に出なくても債務者は支払いを済ませてしまう。なぜなら、支払いをしなければ、業界追放にあうからである。負債の支払いを拒む人は明らかに事業リスクが大きいため、おそらく今日の信用組合が行うように、保険会社同士はリスクのある全ての人の名簿を集約的に維持することに協力し合う。したがって、もし工場主が負債の支払いを拒めば、工場主が取引をしようとするどの保険会社も工場主の保険料を引き上げるか、工場主を全く相手にしなくなってしまう。自由な社会においては、人はありとあらゆる脅威(火災、事故、暴力、等々)から価値を保護する保険産業に依存しており、更に、保険会社が契約の完全性を保証する力になっているというのにもかかわらず、保険に加入せずに(もしくは保険料が高すぎて加入できないで)満足の行く生活を営むことができるだろうか?保険会社がある人と取引を拒めば、その人は所有物の価値を保護することもできなければ、意味のある契約もできなくなる。車を分割払いで購入することさえできない。その上、ちょうど今日の企業が信用格付けを調べるのと同様に、他の事業者も保険会社の名簿で情報を確かめると都合が良いことを知る。従って、工場主の悪評は世に知れ渡る事になる。その債務不履行が深刻なら、工場主と商取引するリスクを誰も冒そうとはしない。業界から追放され、良い仕事にも就けなくなり、良いアパートにも住めなくなる。一番貧しく一番無責任な人でさえ、このような境遇は体験したくないと思うはず。一番裕福で一番実力のある人でさえ、全ての商取引から完全に見放されたら面倒と思うはず。自由な社会においては、他人へ正直に振る舞うことは利己的にも道徳的にも必須であるということを人々は直ぐに気が付いてくる!
こうしたことを目の当たりにして工場主がそれでも頑固に負債の支払いを拒否すれば、侵略的な手段で他人の財産を奪い取った人を扱うのと同様な処置をしても仕方ないと保険会社は判断する。つまり、保険会社には工場主に報復的な強制力を行使する権利がある。この理由は、実際には保険会社が所有する財産を工場主が不正に所持していることにある。しかし、この問題は侵害と不正の是正の領域に入り、後の章で取り扱うため、工場主の件のこの点については割愛する。
保険会社が工場主から徴収する行為の基になる道徳的な原則は次のようなものである:
ある人の持ち物の価値の損失が他の人の意図または過失が原因の場合、債務不履行や侵害を犯して得する人がいてはならないが、意図または過失をしたその人の不誠実で非理性的な振る舞いによる結果なのだから、この損失に責任のあるその人がその損失の大部分を引き受けるべきである。
工場主の不誠実な行為によって発明者や保険会社が利益を得るようなことがあってはならない。さもなけれは不誠実を助長させることになる。そして実際双方共得していない。発明者は工場主の債務不履行による金銭的被害を受けずに済むものの、面倒な事務手続きやおそらくは自分の思い描いていた計画の頓挫などで被害を被っている。保険会社も被害をそれなりに被る。なせなら、発明者への補償は即座に済ませるが、工場主からの徴収は普通ある程度待つ必要があり、場合によっては強制力を働かせる費用までも費やさなければならないからである。ここでの原則は、理性のない不注意な行為によって利益を得る関係者が出てこないように、また、誘惑に負けてそのような行為を実践する人が出てこないようにすることである。今日の保険会社が車両の補償に免責の条件を加える理由と同じである。
とはいうものの、工場主の債務不履行は発明者のせいでも保険会社のせいでもないので、発明者も保険会社もその費用を負担すべきではない。特に、過ちを犯した側から僅かでも徴収するできるのであれば、保険会社にしわよせが行くのはできるだけ避けなければならない。なぜなら、保険会社はその負担をすべて他の保険証券保有者に転嫁するだけであり、他の保険証券保有者にはその事件に関して何の罪もないからである。債務不履行は工場主の過ちであり、己れの行為の帰結は善かれ悪しかれ己れで処理するという道徳律に則って、工場主が支払うべきである。行為には必ず帰結が伴う。
国家主義者の主張では、契約保険の自由市場体系では弱者は悪徳巨大保険業界の餌食にされるだけだ、ということになろう。しかし、そのような議論は自由市場の機能について国家主義者の無知さを物語っているに過ぎない。保険業界は全ての取引において飽く迄も公明正大な振る舞いをせざるを得ない。これは、競争の存在、並びに、評判という価値によって、自由市場の全ての事業が正直になる方向に働くためで、保険業界もその例外ではないからである。保険証券保有者の公正な利益を守り損ねた保険会社は他のもっと評判のある会社に顧客をたちまちの内に取られてしまう。加入者の利益を守るため、その加入者の取引相手となった保険未加入者に不正を働く保険会社も顧客を直ぐに失う。会社がそういった類の保険を提供している限り、そのような保険加入者とは誰も取引するリスクを負おうとしなくなる。従って、保険加入者は会社を変更せざるをえなくなる。業界追放は不誠実な個人に脅威であると同様、不誠実な保険会社にも通用する。その上、競争相手の数の多さと、ビジネス報道で特ダネを嗅ぎ回るマスコミの監視で、悪徳業者は直ぐに淘汰されてしまう。
契約上の問題と無関係の争い事(先制的暴力や詐欺が絡むものを除く)はレッセフェール社会では契約上の争いに比べてずっと稀であろう。この様な争い事としては、土地の境界についての紛争や、患者の意識が無いときに応急手当が行われ、頼んだ覚えのない応急措置が含まれるとして患者が治療費の支払いを拒む、などの例が挙げられる。契約と関係の無い争いは、普通、保険と無関係だが、契約上の争い事と似たような仕組みで仲裁所に争いが持ち込まれる。
契約上の争いの時と同様、契約と無関係の争いでも、争う双方はどの仲裁業者を利用するのかで合意し、仲裁業者と契約して拘束力のある裁定をしてもらわないといけない。争い人らが自分達で解決することが出来なければ、争いのどちらか一方が仲裁所への届出を拒絶する可能性は低い。なぜかといえば、強力な市場の力が紛争解決へと駆り出すからである。土地の境界線の揉め事のように争われている品の所有権がはっきりしないと、所有者には都合が悪い(例えば、争いが解決するまで土地を売却できない)。しかし、そんなことよりもっと深刻なのが、理由もないのに仲裁を拒めば評判を失墜してしまうということである。長引く争いに巻き込まれるのを恐れて、周囲の人々が取引相手になるリスクを冒そうともしなくなる。
契約上の紛争同様、業界追放の脅威は仲裁に赴かせる圧力として充分有効に働く。しかし、罪を犯していようといまいと告発された側が仲裁を拒もうとすることもたまにはある。罪を犯していないのなら、仲裁業者の仲裁委員に自分の潔白を証明する証拠を提出し、必要なら仲裁審理で自己防衛するべきであり、これさえ拒むのは、少し愚か過ぎるであろう。告発している側が間違っている事を証明してこそ、自分の評判を守り、身に覚えの無い債務を背負わされるのを回避できる。その上、告発が無効であることを証明出来れば、告発者から損害賠償を徴収できる可能性も充分ある。一方、告発された者がもし罪を犯していたのなら、被告は仲裁所が厳しい判決をするのを恐れて仲裁を拒絶するかもしれない。告発された者が実際に仲裁を拒否し、被害者側に充分な証拠があるのなら、告発側は泥棒を扱うのと同じ仕方でこの者を処分することができ、損害賠償請求が可能である(処分の仕方や賠償金の徴収については第9章と第10章を参照されたし)。
仲裁の場においても、他の販売可能なサービス同様、自発的選択の自由市場体系の方が、政府が強制する標準化された恣意的な規制より常に勝っている。消費者は自分で自由に選択できるなら、当然の如く、最低価格か最高品質のサービスを提供していると思える会社を選ぶ。消費者の購入実態が信号として事業者に伝えられる利益と損失の合図は、事業者を消費者が最も喜ぶ品やサービスを提供する方向に導く。利益と損失の合図は事業者が決定に導かれる「修正誤差信号」なのである。正確で洗練された現代の会計方法によって、絶え間なく送られ続けるこの信号は極めて詳細な合図を送り出す。
ところが、政府は市場外の機関であり、その目的は利益を上げることではなく、権力を付与し行使することにある。政府役人に利益、損失のデータはない。無理強いされた「顧客」を役人が満足させたいとたとえ思ったとしても、その方針のための頼るべき「修正誤差信号」が存在しない。政治に関心のある有権者の極小数が散発的に送ってくる手紙以外、政治家が得る唯一の「修正誤差信号」は自分の再選結果くらいである。それも二年から六年おきのほんの僅かなデータのみ!しかもこれでさえ明確な合図などとは到底言えない。それぞれの有権者がどの争点を基準に投票したのかも不明確で、もしかしたら候補者のイメージが色っぽかったとか、父親らしい感じで気に入られたということだったからかもしれない。当然、任命される官僚や裁判官はこの意味不明な微弱データでさえ手に入らず、完全に無知のまま仕事をしなければならない。
これは即ち、どの分野であろうとも、消費者の満足を生み出すのに、政府役人がどんなに良心的に仕事をしようとも、自由市場には到底敵わないということなのである。利益と損失は、ある機構が消費者の望むものを与えているのかを正確に伝える唯一の信号系である。が、政府にはこれがない。というよりむしろ、その性格から、持ち得ない。政府の裁判官を含む政府公務員は皆、利益か損失かの信号系を欠いているため、「顧客」の価値を保護又は増加させて「顧客」を喜ばせているのか、それともその価値を破壊して害を与えているのか、全く知りようがない。
揉め事を仲裁する仕事においては(或いは他のどの仕事でも)、政府がたとえ最も良心的な政治家だけからなる考えられる最善の形であったとしても、自由市場で活躍する私営企業には全く太刀打ちのしようがないのである。