生まれた土地と社会階級に法で縛られた中世ヨーロッパ封建社会の農奴がぎりぎりの生計で朝から晩まで原始的な農具を使ってせっせと働いているのを想像してみよう。稼ぎの一部は荘園の主人に収めなければならず、農奴の心は恐怖と迷信に閉じ込められている。この農奴に20世紀のアメリカの社会構造をあなたが伝えてみるのを想像してみよう。そのような社会構造が存在し得るということを納得してもらうのに、恐らくあなたは苦労する。これは、あなたが伝えた事全てを、農奴は自分の社会についての知識を頼りに理解しようとするからである。そして農奴は自信げな優越感の微笑みできっとあなたに、「それぞれの人がそれぞれ自分の生まれ育った社会で一定の社会的地位に永続的についていない限り、社会はあっという間に混乱に陥ってしまう。」と言ってくるであろう。
同様にして、20世紀の人間に、政府は邪悪で故に必要なく、政府が無い方が遥に社会は良くなる、と伝えれば、恐らくきっと懐疑論を丁寧に持ち出して来ることになるだろう。独りで物事を考えることに慣れていない人に話すと特にこうなりやすい。自分達の住む社会と異なる社会、特により発達した社会、の仕組みを思い描くのは、いつも難しい。これは、自分達の社会構造に慣れ親しみ過ぎて、より進んだ社会のそれぞれの側面を、どうしても自分達の社会に照らし合わせて見てしまい、結局、イメージが歪められ意味が通じなくなってしまうからである。
人々が今日当たり前に思っている不愉快な出来事は、政府が全く無い社会では事情が異なってくる。こうした違いの殆どは、ファシズム的な政府支配と社会主義的な政府支配、両方の支配の弾圧から自由になった市場によって生み出され、よって、市場は健全な経済を作り出せるようになり、全ての人が遥に高度な生活水準で暮らせる。
どのような社会であろうと失業は政府が市場に介入した結果である。政府の無い社会には失業問題は存在しない。労働力は資源より限られているため需要があり、仕事が欲しいと思う者には仕事が手に入る。新たな繁栄と上昇する売上から生じる労働力の需要で、産業は熱心に雇用を求めるようになり、少数民族を雇ったり、教育のない者に仕事に就きながら職業訓練を受けさせる制度を設けたり、工場に託児所を設けて乳幼児を抱える母親を雇ったり、身障者を雇入れるなどして、全ての有能な労働力を活用しようとする。事業者は官僚の言う「過剰利益」を支払わなくて済み、労働力の生産性を高めるための製造機器にその分を投資できるようになるため(給与は生産性で定まるので)、給与が上昇する。
人々の所得には大きな格差がいつもあることになろうが、自由市場の社会では、現代社会に見られる失業者や貧困弱者の社会層は消失する。貧乏人は飢餓で放置されるようなことはなく、政府の無い社会では、最低でも、貧困から抜け出すあらゆる機会や援助を与えられる。
無論、暫定的にしろ永続的にしろ、身心の重度の障害や、財政上の失敗や、その他の理由で生計を立てられない人々が必ず出て来る。政府の生活保護手当てはないので、そのような人々は個人的な寄付で救済される。救済に必要な分の寄付はいつもよく集められるはずである。募金や寄贈財産の配布事業をする人々に不足が出たという問題を抱えたことは一度もないし、この準自由国家で人々は所得の3分の1以上を税で略奪されているのにもかかわらず、それでもまだ、数十もある慈善事業に毎年寄贈が気前よく行われているという裕福さが残っている。個人的な寄付は政府の福祉事業に比べ格段に経済的且つ効率的である。その分けは、救済に値する人とただ飯をただ欲しいだけの偽者を見分け、それに応じて配給する仕事に、個人的な寄付を行う人の方が遥に適しているという事実にある。個人的な寄付は自発的な寄与に基づいているのに対し、政府の福祉事業の配布資金は生産的な納税者に合法的に銃口を向けながらの略奪で賄われているという道徳的な違いが、実践上の優劣に現れてくるのである。
しかし多くの人は、政府の学校制度無しで子供達を教育する責務に直面すると、慈善事業では無理だと感じる。親に見放された子供や親が学校に通わせる事ができない子供など、全ての子供たちを世話するだけの充分な資金は慈善事業では絶対に賄えないと多くの人が思う。このような意見が出て来る原因は、自由社会の環境をきちんと理解していない事にある。
貧困は政府の経済への干渉の結果であること、そして、現代の産業社会に貧困がある必要性がないことは既に説明してきた。低所得者は自分の子供を教育するのに、確かに、生活を切り詰めなくてはならないが、学校に通わせるお金が全くない程余裕が無いわけではない。また、子供の教育を助成する政府は存在しないことを親が理解しているなら、子供を上手く育てて教育していくことにも親はもっと責任を持たなければならず、子供を作る以前から慎重に考えるようになる。 医薬品法が妨害する避妊器具は解禁され、その製造業者はマスコミに広告を自由に載せられる。そのため低所得者層の低学歴家庭の子供の数は激減すると予想される。低所得者層の親は、子供の数の減少で経済的負荷から解放されるため、より豊かな生活水準で生活できるようになるばかりでなく、自分の子供により高等な教育を受けさせることもできるようになり、後を継ぐ世代はより高級な社会経済的地位に立てるようになる。
勿論、教育自体も自由市場に置かれれば格段に改善される。現在、生徒の殆どが毎日かなりの時間を無駄に過ごして学校にいる。これは主に二つの要因に依る:
能力や以前の成績と無関係に同じ教育課程を全員に強いる「民主主義」の強調。
教育に競争がないため、学力の進展に大きく滞りがあっても学校は咎められないで済んでしまう、硬直した社会主義的教育体制。
自由市場の教育機関はそれぞれが競い合い、有効な教育方法や革新的な教材を即座に受け入れ活用するので、遥に優れた教育課程をより短時間でより安価にこなすようなことに着実になって行く。自由市場のこの新たな教育術の活用で、一番出来の悪い生徒を除いては全生徒が現在の教育課程を一ヶ月から一年短縮して卒業して行くことが見込まれる。こうなれば、貴重な若者の時間も親の教育費も節約され、生徒の生産人口として働く期間が伸びてくる。(よって社会全体の生活水準も上昇する。)
競争する自由市場でのレッセフェールな教育システムは、関心、才能、信仰、生活習慣の異なる様々な人々の要望に沿う極めて多彩なあらゆる学校を提供してくれる。敬虔なキリスト教徒は自分の子供を授業の始まりに必ず祈りを捧げるミッション系の学校に通わせることができ、無神論者の権利を侵害しなくて済む。無神論者もまた、自分の子供を道理のみで教える学校に通わせられる。ブラックパンサー員は黒人だけの学校に子供を通わせられるし、白人隔離主義者は白人だけの学校に、人種統合主義者は人種を問わない学校に通わせられる。(強制的な他民族主義は、強制的な隔離主義同様、害である。)秀才の子供、特殊な障害のある子供、様々な分野(音楽、数学、文学、など)で素質のある子供など、特別に用意された学校もできることになろう。こうした多彩な学校は様々な条件と教育手段で運営し、学費も各々の学校が設定する。厳格な学校もあれば寛容な学校も創設される。授業期間が年12ヶ月の学校もできれば、年6ヶ月の学校もできる。消費者が望む全ての種類の学校が事実上提供され、どの学校を選ぶかは厳密に個人の選択の自由に任される。大幅に「平均化」された多数派のための、従って、あらゆる少数派に害のある、均一化された教育の機械に、子供全員が無理やり押し込められるようなことはもはや無い。
税という強盗に依らず、自由市場での学校は授業料で賄われるが、両親が子供の学費を全て負担する必要がある、というわけでは必ずしも無い。特に高校と大学でこれが言える。今日でさえ、数十もの企業が、よく鍛えられた有能な数学者、工学者、化学者等を探し出し、ひも付きでない寛大な奨学金で才能ある学生達を助成し、卒業と共に会社へ招き入れるのを狙っている。完全な自由市場の社会における健全な経済の下では、企業は更にもっと多彩な専門分野で更にずっと多くの雇用(と独立の下請けも)を探すようになる。そのような企業は、有望な生徒を大学へ通わせてくれるだけでなく、高校の授業料でさえ援助してくれることも充分ありえる。また、生徒は会社に有用な技能を身に付け一定期間当該企業のみで働いてもらうという契約の条件付きで、平均的な学力でも野心のある生徒には高校の教育課程が多くの企業で無料提供されるようになる可能性もある。
硬直した社会主義的条件下にあるにもかかわらず、もう既に多くの企業がぞくぞくと教育に関心を露に持ち始めてきている。授業の質と速度を改良するため、こうした企業は、コンピュータ、その他の機器の利用を含め、更に優れた教育方法の研究に興味を示す。死後硬直と化している行政府管理がもし無かったとしたら、この様な企業が教育分野にどれほどの有益をもたらしていたことだろうときりのない想像をさせられる。
無論、教育現場がいつも教室とは限らない。テレビは安価で有望な教育手段になる。今のところ、殆どの教育番組は、質も関心度も良いとは決して言えない。これは連邦通信委員会(FCC)の愚かな規制による競争の欠落が主な原因になっている。誰がこの分野に参入でき、どのような番組を放送していいのかはFCCが決定するため、事実上FCCが独裁的な支配をしている。レッセフェール社会では、使用されていないチャンネルがあればそのチャンネルを使って好きな内容で放送事業することが誰にでも可能になる。放送がもし視聴者を傷つける内容なら、もちろん、視聴者を失い事業に失敗する。やはりここでも競争が選りすぐりへと物事を動かす。
テレビが政府干渉から解放されれば、多くの団体が教育テレビ事業を始める。教育番組放送業者によっては、放送内容を無料提供し、教科書代や検定料(生徒が数万人単位なら料金は格安になる)で利益を上げるという手法を採用するかもしれない。もしくは今の娯楽番組のように、参考書やテストを無料配布しコマーシャル代で稼ぐ方法もある。番組のスポンサーは、顧客向けだけでなく、番組で教える知識や技能を求め自社の雇用向けにもコマーシャルを流すことができる。これは会社の従業員の潜在的確保ができると共に、生徒の就職先探しにも役立ち、双方に有益な情報となる。また、生徒となる視聴者の激しい取り合いの中、視聴者確保のため教育放送業者は最も効率的で「楽しく」学べる方法を開発する。
安く高品質の効率的な教育と、奨学金を出してくれる産業と、教育テレビがあるにもかかわらず、教育を殆ど受けない子供や文盲の子供も、少なくとも可能性として現れてくる。こうした子供は、学ぶ能力が無いか、学ぶ気力が無いかのどちらかで、学ぶ能力と気力両方ある子供は、たとえ親が世話をしなくても、誰かが助けてくれることが多い。だが、「学校に行かないこうした文盲の子供に教育を!」と政府に呼びかける前に、政府助成の高卒の驚くほど高い文盲率に注目して欲しい。学校の授業に出席して卒業しても、教育を受けたことにはならない。実のところ、苦痛な程つまらないと思う授業に卒業まで無理やり出席させられた子供は、知識を身につけることを慈しむようになるより、むしろ、その束縛と「社会」一般に反感を持つようになる方が圧倒的に普通である。人は本当に学びたいと思わない限り学べないし、子供を無理やり学校に通わせても、本人の学び取る欲求が増すことはまずない。
競争する教育機関は消費者とその子供に教育の選択肢を提供する。これは、教育課程(体育をもっと増やす?教科科目をもっと増やす?黒人研究履修をやる?)、生徒の構成(人種別それとも多民族?スクールバスを使って多民族化?)、教育の管理(親、先生、有権者、教育委員会、それとも大学に任せる?)、その他の強要的な政府の教育政策を悩ませてきた解決不能な問題の論争に完璧な終止符を打つ。もしそれぞれの消費者が、競争する学校の中から、自分が最も大切だと思える教育形式を自由に選択できたとしたなら、こうした問題は全て自動的に解決され、全ての人が満足する。教育における競争は、政府の強要的な独占がする搾取から、生徒と親を解放する。
同様にして、他の全ての分野においても、競争は消費者を保護する。もしある企業が消費者や従業員を搾取しようとすれば、これが信号の合図となり、他の企業が初めの企業の儲けに預ろうと競争に参加してくる。この競争は即座に価格を下げ質を向上させ、または給与を上昇させ、搾取が消滅する。
自由市場では選択肢が消費者に常に存在する。人を本人の判断に反して行動させるには、強制力を行使するか詐欺をやるしかないが、自由市場でこれをやる企業は顧客を失う。強要的な独占は行政府の作る産物で、政府の保護が無い限り存続できない。レッセフェール社会では、政府からの搾取も、暴力や詐欺によって市場操作しようとする企業からの搾取も、経済から消滅する。
巨大企業なら強制力の行使や詐欺をしても、少なくとも限られた範囲内ならば、その巨大市場のお陰でその情報が顧客や競争相手に漏れるのを封鎖できるので、加害業者に深刻な打撃を与えない、という反論が出ている。しかし、これはレッセフェール社会におけるマスコミの役割を見落としている。
思考実験として、任意の都市新聞の一面を開けて、国や州や地元政府と全く関係ない見出しの数を数えてみる。天災が起きた直後でないかぎり、おそらく二、三しか見つからないか若しくは皆無であろう。記者はその仕事で生計を立てているのだから、何かを書かないといけない。政府が無かったとすれば、その分著名人、商業、産業の動向に目が向けられる。発明や医学的発見や科学的発見がニュースになるだけでなく、暴行や詐欺も記事になる。特に、これが巨大有名企業のやった事なら尚更である。ラジオ、テレビ、映画、雑誌、通信社は言うまでもなく、「特ダネ」を探して厳しく競い合う新聞記者からも、秘密を隠すのは、並々成らない。レッセフェール社会では、相当量を占める政府関係記事は存在しないため、大義名分の通らない行動を秘密に保つのは更に一層難しくなる。
商売同士の激しい競争は、もちろん、消費者が良質な商品を低価格で得る最善の保証である。不誠実な競争相手は、消費者から直ちに「票」を失い、脱落する。また、競争に加え、市場は進化し、消費者を保護する仕組みのセーフガードを装備するようになる。これは今日の官僚が消費者保護の名目で行う、矛盾と混乱を伴った政府規制より遥に優れたものになる。そのような市場のセーフガードの一つが、消費者向けの格付けサービスである。このサービスでは安全や有効性、価格などの面で様々な商品を検査、評価する。格付けサービスの存在自体が評価の正確さにかかっているため、検査は極めて周到に行われ、結果も細心の注意を払って正直に公表される。このため贈収賄は不可能に近い(政府役人の場合そうとは限らない!)。
消費者に危険が及ぶ可能性のある商品を取り扱う商売は、評価や評判に特に依存する。例えば製薬会社の場合、会社の商品が品質の低さや不十分な研究や製造、不適切な注意書き等で、病気や死亡の原因になれば、何千という顧客を失うのを覚悟しなければならない。店の評判が事業の最も貴重な財産であるため、この様な財産を自ら傷つけるようなことはどのような商売もやらない。また、医薬品店も、高品質で、適切に使用すれば安全で、表示がきちんとしている商品しか置いていないという評判になるよう心がける。融通の効かない、やっかいで、費用のかかる現行の処方体制の代わりに、どの医薬品を使用すべきかや、医師に診てもらうべきかどううかなど、顧客の質問に応じる目的で、医薬品店が薬剤師を雇い入れる可能性も充分ある(この方法なら怪我や病気が軽度の患者のために忙しくなってしまう医師の負担が大幅に削減され、医療費も大幅に安くなる)。
政府の免許制度が無ければ、好評判は医師にとっても大切な事になる。自分を医者だと呼んで標識を掲げることは、もちろん、誰にでも自由に出来るが、「治療」が患者を傷つければ、傷つけた者の商売は長く続かない。その上、評判のある医師はおそらく有能な医師だけを認可する医学的な組織を結成するため、消費者には案内が提供される。保険会社にとっては被保険者が健康に暮らしていることが儲けにつながることから、医薬品と医療の両市場分野で更なるセーフガードが提供される。保険会社は、「被保険者は『定評のある』医療団体に認可された医薬品や医師の治療のみを利用すること」という規約条項を載せた生命保険や健康保険に、当然低い保険料を設定してくる。この消費者保護の自由市場体制は医師不足を解消し、殆どの医療費を劇的に低下させる。なぜなら、大学で何年勉強したのかにかかわらず(もしくは、実際起こりうることとして、大卒でなくても)、有能なら誰でも医療が施せるようになるからである。脳外科医は12年訓練が必要かもしれないが、風邪やインフルエンザや足の親指の巻爪の治療をできるようになるには二年も学べば十分か、もしくは全然必要ないもしれない。風邪と足の親指の巻爪を治療する訓練と脳外科のための訓練に同じ期間を要求し、どちらの治療費も似たような価格水準になるような不条理に、自由市場体制が任せておくわけがない。
こうした自由市場のセーフガードの効率性は食品医薬品局(FDA)2424【訳注】日本の厚生省に相当すると考えてよい。が我々を「守る」方法と著しく対照的である。FDAは医薬品で人が死亡するのを(FDAの評判に傷が付くので)防止しようとする。だが、病気で死亡する人がどれだけいようと構わない。なぜなら、行政による規制が効き目のある医薬品の開発と販売を阻止しているからで、こうした阻止が原因の死亡は(今のところ)FDAのせいにならないからである。一方、保険会社は、被保険者がどのような原因であっても死亡しないようにすることが会社にとって重要と捉えるため、有害な医薬品を使用しないよう注意するばかりでなく、役に立つ医薬品の発見、開発、販売にも協力する。自由市場がするやり方は行政府のそれ、即ち、強要、より常に優れている。自由が奴隷制より常に優位にあるからである。
政府が消費者を守ろうとすると、物事を標準化し強制を図る、ということをする。そうした基準は、官僚の感覚以外決めようがないので、必ず誰かの裁量に任される。しかし、仮にその基準が現状に沿っていたとしても、長期間適切でいることはまずありえない。市場環境は、研究や新製品の登場、需要の変化に伴って変化する。ところが官僚が決めた規則は引き継がれ時世についていけない。それ故、行政のやる「消費者の保護」は、競争のある自由市場で生み出された消費者の真の保護を阻止することにしかならない。これは実際に観察できる事実であり、政府規制は、阻害されない市場だったら設定していたはずの本来の基準よりも劣った基準を設けるため(または、商品に適用しない基準を強制するため)、消費者を守る安全性は鈍化してしまう。多くの事業者は全ての責任を取らなくて済むようになることから、その劣悪な標準規定を受け入れるようになる。消費者は、賢い政府が欲張り企業の邪悪から守ってくれると信じて(政府規制の学校でそう学ぶ)、安心して基準を受け入れる。実際には、儲けのために働く事業者からの方が消費者は良い思いが出来る。事業者は権力を狙う政治家から課税され規制されいじめられるだけである。
消費者への保護が多分最も欠落し政府が人を最も脅かしている分野は、お金の価値を維持する分野である。お金は全ての産業社会の生命線である。お金がもし価値を失えば経済全体が必ず崩壊する。
お金は、それ自体に大きな市場性がある故、交換媒体として使用される。お金となるためには、商品に大きな市場性がなければならない。即ち、その商品の価値が人々に受け入れられなければならない。従って、商品としてのお金は、お金の地位を維持するため、その交換価値に加え、商品として大きな価値を保持していなければならない。
過去数世紀以上に渡って、全ての文明世界で、金と銀二つの商品がお金として顕著に使われてきた。双方共、装飾用、工業用で利用価値があり、比較的希少であるため、大きな市場性がある。双方共均質で、等分割可能で、非腐食性で、運搬し易い。こうした理由から、金銀共に交換媒体として最も広く受け入れられてきた。
そうであるなら、現在、お金は金と銀である。お金は単なるお札(おふだ)ではないし、なり得ない。なぜなら、お札(おふだ)は価値が低過ぎて市場性がないからである。ただし、いつでも自由に交換できる金か銀が存在する時に限って、お札(おふだ)はお金の代替品になり得る。
政府はお札(おふだ)に価値を与えることはできないし、お札(おふだ)に価値は無い。お札(おふだ)に金か銀の裏打ちがあり、且つ、札でいつでも金か銀に交換できるようになっていれば例外である。金や銀に自由に変換できないままお金に紙を用いる政府は、経済の死を時間の問題と化とさせている。何らかの危機でこの金融詐欺が表面化すれば、価値の無い紙の値打ちが無くなり、経済は崩壊し飢餓と廃墟が生じる。1923年のドイツでこれが起き、パン一斤を買うのにマルク紙幣一籠分必要になった(ヒトラーが権力を握ることになった主な要因である)。政治家が現在の進路を取り続ければ、これはアメリカでも必ず起こる。
レッセフェール社会では、お金の価値基準として、唯一金のみが受け入れられる(商品としての金を価値基準とすることは自由市場が既に樹立している)。「紙幣」を「お金」と呼んで紙を印刷し、それ以外の全ての交換媒体の使用を禁止する法律を通す政府の存在はもはやない。金を一定の重さと純度で硬貨にするのが最も好都合で、私営の硬貨の造幣業者が現れる。造幣業者は硬貨を鋳造し、商標を刻印し、価値を保証する。価値の保証が一番信頼でき、硬貨製造を最も上手く行う業者が硬貨事業で一番成功する。(偽造は詐欺の一種で、その他の先制的な侵害行為と同様に扱われる。第9章と第10章を参照されたし。)
硬貨製造の個人事業は、業者がそれぞれ異なる造幣を行うので、硬貨の社名と価値に混乱を来たし、取引が複雑過ぎてできなくなる、と自由市場に疑問を持つ人達は主張する。だが、市場は常に消費者が最も満足する方向へ移動する。消費者がもし様々な価値の硬貨は取扱いに困ると判断したなら、暫くするうちに「不適当な」硬貨は受け入れられなくなり、商業は自然と標準化されて行く。
政府は法が強制した交換媒体の価値を低下させ国の歳入にすることをいつの時代も行ってきた。昔は君主が全ての硬貨を検閲し、その際角を削り、金をこうして集め、軽くなった硬貨を民に返却していた。現代の啓発された我々の時代には、同様の目的が通貨膨張(インフレ)によって達成されている。インフレを行えば、政府が使える「造幣局のお金」が益し、経済に既に出回っていた通貨の価値が減少する、
政府は国の交換媒体における独占を法的に確保しているため、国の通貨の価値を徐々に下げて行く工程を阻む仕組みは殆ど何も無く、最終的には必ず金融の大惨事を招く。このような詐欺を自由市場で造幣業者がやれば、絶対にただでは済まされない。造幣業者が低い価値の硬貨をもし発行したなら、人々が受け入れを拒むだけである(グレシャムの法則「悪貨が良貨を駆逐する」の逆)。そうなればこの不誠実な造幣業者は潰れてしまう。だが、造幣業者が潰れても、国全体が無実な人々も巻き添えにして潰れるわけではない。通貨価値は経済の強さを意味するが、この分野は(政府のおかげで)今日まで全く消費者に保護が無く、ましてやそれこそ必須分野である。自由市場がついにこの分野で消費者に保護を提供できるようになる。
金硬貨(と多分銀硬貨)に加え、自由市場ではお金の代替品も使用される。その利便性から特に巨額の支払いに利用される。こうしたお金の代替品として銀行券が用いられ、銀行券はその保有者がある特定の量の金を銀行に預けていることを証明する。銀行は銀行券に対して十割の準備金を保持しておかなければならない。十割の保持がなければ詐欺であり、顧客はそのような危険な商売をする銀行には足を運ばない。裏付けの無い政府紙幣とは異なり、銀行は十割の準備金を保持しているので、こうしたお金の代替品はインフレを起こさない。また、銀行の取り付け騒ぎの結果、銀行が返済不能となって多くの顧客が損失を負うような危険性も無くなる。このような取り付け騒ぎは、銀行が部分準備制を採用している結果で、部分準備制を採用できるのは、法的に政府が容認し保護するからである。
金のみが価値の金融基準に使用されることが競争によって保証され、また、全てのお金の代替品は十割の金の裏付けがあることで、レッセフェール社会は金融危機の脅威から半永久的におさらばできる。自由社会の健全な経済が強さを維持できるのは、お金が半永久的に価値を維持するからで、言わば、お金が難攻不落になるためである。