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第II部、レッセフェール社会

第10章、 不正の是正

侵害行為は、加害者の財産を破壊することによって処理されるのではなく、犠牲者の損害を加害者に返済させる(やむを得ない場合は強制力の行使も含めて)ことにより処理されるため、自由市場が賠償制度を進化させることで、今日の政府刑務所より遥に優れた形態による異質の制度が生み出される。

もし賠償金の全額を直ちに支払うだけの金銭若しくは財産が加害者にあるのなら、加害者は多額の損失を出せば解放される。しかし、侵害行為はかなりの費用になるため、このようなことはまずありえない。ちょっとした窃盗や破壊行為でも、関係する諸経費や被害者の損失が原因で起こる二次的な被害の支払い、警備会社と仲裁業者への出費などを考慮すると、負債はたちまちのうちに膨れ上がって行く。完全に自由な社会では人は己れの長所に比例して経済的な成功をおさめるようになる。成功している人は侵害行為を行おうとはしないが、成功していない人が侵害行為をしても直ぐに支払える能力はない。

加害者が全負債を直ちに支払えないと仮定した場合、負債総額、侵害行為の性格、加害者の態度の経歴、その他諸々の情報によって徴収する方法に違いが出てくる。どの方法を用いるかはその違いで自ずと明かになる。

侵害行為が暴力的なわけでもなく経歴から見て加害者が信頼できる場合には、他の普通の債務で行われるのと同様に、加害者を自由にして定期的な支払いの日程を組めば、それで充分である。加害者の定期的な支払いを当てにできない場合には、保険会社と加害者、及び、加害者の雇用主の三者間で自主的な協議を行い、雇用主の保険会社への支払いは雇用主が加害者の給料から賠償金を差し引くことで補償されると取り決めることもできる。

一般の雇用者が加害者のリスクを気にして加害者が就職口を見つける事が出来ない場合、加害者は信頼されていない人々を低賃金で雇う会社を頼って仕事を見つけることになる。(失業者のいない経済では、新たな労働力を探して、このような雇用を行う会社も出てくる。価格が需要と供給の関係で決まることから、そのような会社が生産する製品の価格は、競争相手の価格とそれほど変わらないが、当てにできない労働力のリスクを補うため、会社が支給する給与は必然的に安くなる。)

加害者が当てにならない、或いは、暴力的な性格の持ち主の場合には、加害者はある程度拘束がある状態で働いて負債を返済していかなければならない。その拘束はこの道専門の更生会社によって管理される。そのため更生会社は債務者を収容する労役場の維持を行う(「刑務所」には価値を破壊する意味が含まれるため、ここではこの言葉の使用を避けた)。工場を労役場の隣に建てるか、工場まで毎日送迎することで、監禁された人々はどのような会社にも頼り甲斐のある労働力になる。債務者は普通の従業員と同じように、給料のために働くが、稼ぎの大部分は賠償金の支払いに当てられ、残りの大部分が、部屋と食事代、設備や警備その他の維持管理費に費やされる。また、働くことを拒否することができないよう、毎日稼ぎから賠償金の返済料が部屋と食事代の前に差し引かれる。このため、もし仕事を拒めば食事抜き、もしくは生きてゆくぎりぎりの食事しかできなくなる。

監禁の程度は様々な条件で変化する。「君たちを閉じ込めておく壁はないが、逃走して捕まればここには戻ってこれず、普通の刑務所に入れられるぞ。」と囚人に言い聞かせる今日のアメリカの農場経営の更生施設3131【訳注】英語は「prison farm」。のような具合に、多くの労役場は非常に簡単な監禁で済まされる。このような労役場では、債務者の稼ぎから週に一度小遣いを許して、少しの贅沢や、おそらくは少し立派な部屋を借りることができる機会も与える。信頼を充分に取り戻した債務者には、週末に家族や友人を訪れる許可を与え、長期休暇も取れるようにさせる。

その他の労役場はより厳重な施設を設け、極めて凶悪な危険人物用に監禁が最も厳しい設備も用意する。このような労役場に閉じ込められる人物は、いくつもの面でこの不利な条件に気が付いてくる。つまり、自由を失い、贅沢できなくなり、働き口が狭められ、監禁が長期化する、と分かってくるはずである。なぜならば、警備と設備が厳しくなればなるほど、本人の稼ぎが益々その経費に費やされ、その分負債の返済期間が延びるからである。

最も理性的な文明でさえも精神を病んだ人は出てくるため、制度に組み込まれたそうした不利益や刺激にもかかわらず、仕事をしようとせず、立ち直ろうともしない人が、恐らく稀に現れてくる。そういう人は自滅行為をしており、精神異常と認定される。もちろん、更生会社、逮捕した警備会社、保険会社、及び、その他の債権者の誰にもこの人の生活を支えてやる義務などない(今日なら、税を通して被害者でさえ、この人の生活を保護してやらなければならない)。かと言って、野放しにして犯罪を繰り替えさせるわけにもいかない。もし、この人を死なせるのなら、この人が起こした経済的損失を穴埋めする望みを一切断つことになる。だとしたら一体どうしたらいいのだろうか?

その事実が示唆する一つの手立てとして、精神異常の原因や治療を臨床研究している医師や精神科医に被験者として売却するという手段が考えられる。こうすれば異常者の管理も充分に賄え、同時に、精神医学を発達させ、究極的には類似の患者を治療する望みにも繋がる。もしこの様な取引が行われたとすると、異常者に危害が加わらないようにすることは、関係者全員にとって大切な事になる。理性的な文明になると重度の精神病患者は今日の我々の文明より遥に稀な事例となるため、精神医療班にとっては非常に貴重な実験材料になる。また、仲裁業者は囚人を虐待する労役場に負債者を送り込んでいるという不評には耐えられないため、管理を受け持つ更生会社も囚人に危害を与えないよう尚のこと努力する。

暗黒時代にある今日の野蛮な政府刑務所制度と比べて、自由市場の債務者労役場には現実的な利点がいくつも存在する。そうした利点は、この制度が保険会社と労役場を経営する更生会社両方の利潤追求で営まれているという事実から必然的に生じて来る。レッセフェール経済では、誠実で公正な行為である理性的な行為を最大限発揮しなければ、長期に渡って一貫した利潤は上げられないのである。

この原理の実例が保険会社が損失を直ちに補おうとすることに現れている。加害者の賠償の返済額を増大させることは保険会社の利益に繋がる事から、更生会社が囚人を必要以上に監禁することを保険会社は望まない。なぜなら、監禁を厳しくすればより経費が増し、賠償金に当てる金額がそれだけ減らされるからである。従って、囚人が負債を返済する期間中、囚人が自由を失う程度は、場合によってはその自由を失う期間自体も、本人自身の過去現在の行いと性格にかかってくる。そして、囚人が信頼を取り戻すに連れ、監禁の程度を緩くすれば、囚人が理性を取り戻して行く良い刺激にもなる。

保険会社も更生会社も利益が上がる事業をしようとするため、できるだけ囚人の生産性が向上するよう努力する。工業化が進んだ社会では、労働者の生産性は肉体ではなく頭脳と技能に依存する。そのため囚人は、本人の素質にできるだけ近い分野で働くことが許され、職場での職業訓練や定時制の学校等に通って技術を磨くことも勧められる。負債の返済終了と同時に、こうしたこと全てが生産的で真面目な生活をして行くことに役に立つ。つまり、侵害行為の問題に自由市場原理を適用することによって、社会復帰制度が自ずと構築されるのである。これは政府経営の刑務所と著しく対照的である。「犯罪の学校」と大して変わらない刑務所では、一犯目の若者がベテランの前科者と同じ檻に閉じ込められ、社会復帰への動機や機会が与えられることは全くない。

侵害行為の金銭的な賠償制度は、「利潤」目的の犯行動機を大幅に取り除く。窃盗犯は、もし捕まれば盗んだもの(と多分かなりの自分のお金も)を全て諦めなければならないことを覚悟しなくてはならない。そして盗品を隠して五年の懲役刑が済めば大金持ちで暮らして行けるというような可能性も消滅する。

保険会社が損害を素早く取り返そうと励むことは債務者が虐待を受けない一番の保証になる。稼ぐ能力は生産性に依存し、生産性は知性を用いることに依存する。ところが、身体的に或いは精神的に虐待を受けた者は、知性を有効に用いようとせず、用いることさえできなくなる。虐待を受けた人間は、殆ど生産性のない単純肉体労働以外利用価値がない。

債務者となった加害者が適正に扱われるもう一つの重要な保証は、レッセフェール社会では、誰であろうとも己れの行為の責任は己れに全てあるということにある。労役場の看守は囚人を殴ればただでは済まされない。虐待を受けた囚人は、警備会社、或いは、賠償金の支払先の保険会社に苦情を訴えることができる。虐待が証明されれば、罪を犯した看守はその囚人に負債を抱えることになる。その囚人に充分な証拠があれば、看守の雇い主は、看守をかばうようなことは絶対にしない。もし看守の加虐行為を黙認していたなら、罪は雇い主にも及ぶからである。

政府の刑務所の看守は囚人を動物以下に扱っても責任を取らないで済まされる。なぜなら、看守の立場が政府警察機構の一部として守られているからである。ところが、刑務所の看守が政府を隠れ蓑にするように、労役場の看守が雇用先の更生会社を隠れ蓑にすることはできない。労役場の看守は、自分の行動に責任を持つ一個人として認識される。だからもし、担当する囚人を虐待すれば、「制度」のせいにして抜け駆けするようなことはできず、個人的に責任を取らされるのである。

自由市場体制は最大限の正義で侵害行為を処理する。これは正にこの体制が利己の原理に則っていることに起因している。人間の利己の全ては、理性的な思考と行為、及び、理性的な振る舞いによる報いから成る。即ち、理性と異なれば人の利己とはならないのである。人は理性的に振る舞う限り、非強要的な人物を意図的に害することは出来ない。レッセフェール社会が上手く行く理由の一つは、自由市場が人を各々の理性的利己に従って行動させ取引にうまく参加したいという動機まで与えるということにある。こうして誠実さと正義が報われ、不正直と先制的強制力が罰せられる。市場がもし侵害行為の問題にも自由に取り組むことができれば、食料の供給やコンピュータの製造と同じようにこの原理が働いて行くことになる。

侵害行為の償いは金銭的に行われるという提案には疑問や反論がいくつか出されている。例えば、窃盗犯が盗品を自発的に返却すれば「お咎めなし」で済まされるのは問題であるという意見がそれである。しかし、この意見は、追加経費と評判の失墜というの二つの事実を見落とす間違いを犯している。まず、窃盗犯が盗品を所持している限り、所有主は不便をして経費もかかり、その上、取り戻すための費用までも費やさなければならず、これら全てが盗犯行為で生じさせた債務の一部となるということである。事件になるような侵害行為ならば、加害者が追加的経費を生じさせずに盗品を素早く返却することは殆ど不可能に近い。例えば、ある人が銀行で銃を突きつけ二万ドルを強盗したが、後悔して数分後に戻ってきて金を返したとする。この人はそれ以上の賠償をしないで済むだろうか?いいや、済まされない。なぜなら、その人の非理性的な行動で銀行の業務が遮られ経済的な損失が生じているかもしれず、これは直接その人の責任になるからである。お金を強奪するために、窓口係や他の銀行員、銀行の来客を銃で脅しているので、生命と安全を脅かせたことへの償いもこうした人々にする必要がある。また、強盗が銀行を去ると同時に、窓口係は間違いなく警報装置を作動させているため、銀行の警備会社が駆け付けている。従って警備会社の出動費用とその諸経費にも責任を負っている。

二つ目、評判の失墜は、更に深く加害者を貶める。専門の企業が高リスク者の名簿を作ってファイルを集中管理するように、犯罪者名簿も同様に維持管理するため、他人と取引するときには、まず相手の履歴を確認する事が誰にでもできるようになる。保険会社はこのサービスを特によく利用する。従って先の銀行強盗犯を保険会社が高リスクの名簿に載せるようになるため、他の企業もこの元強盗犯とは付き合おうとしなくなる。このようにして、ある人が一時的な気まぐれで銀行強盗を犯すほど愚かであるとすれば、その人は相当な費用を使い果たして大切な面目も潰したあげく、結局得るものは何も無かったと分かってくることになろう。

似たような意見であるが、大金持ちならその莫大な富を僅かに失うだけで済むため、強要的な犯行を何度でも繰り返すことが出来る、として反対する人もいる。大方理性が支配する文明の中で、その様な精神を病んだ者が、病を治さず放置され生存し続けられるかどうか、想像するのに少し苦労するところではあるが、とにかくそうだと仮定してみる。するとその人は、犯行を犯して失うものはお金だけではないことに直ぐに気が付いて来る。つまり、この人の侵害行為の経歴を世間が認識した途端に、この人と付き合う正直者はいなくなってしまう。疫病のように避けずに危険を覚悟で近寄ってくる連中は、この人より上手若しくは賢いと思っている人間だけで、その人の莫大な資金が目当てなだけである。こればかりでなく、被害者が自己防衛でこの大金持ちを殺害する可能性も大いにある。侵害行為の不評があることを考えれば、この人が脅迫的な態度を取った途端に射殺しても正当防衛になる可能性が高い。つまり、負債の返済能力があったとしても、この人の人生は惨めで危険に溢れ、おそらく富もあっという間に消え去ってしまう。

更に、もしある者が軽い窃盗だけを繰り返せば、取り返す経費より取り戻せる総額が少な過ぎて告訴が経済的に不可能になるため、従って(一種の)侵害行為の経歴でも咎められないで済む、という意見もある。しかし、犯行が一旦暴かれ記録に残れば面目丸潰れで、そのような「風船ガム泥棒」は得より損の方がずっと大きい。

以上の意見から明らかなのは、評判の失墜は加害者にとって少なくとも負債額と同程度の損失になり、賠償を支払い、以降、理性的な振る舞いに努めるようにしない限り、評判の回復はありえない、ということである。たとえ資金的な損失を無視することが出来ても、面目を失えば、保険の保護や信用、重要な事業取引を失い、正直な友達も去り、人並みの生活は出来なくなる。

上述の金銭的支払いに反対する意見は全て、侵害行為を抑止するに不充分であるといった前提があり、そこには、懲罰の厳しさが犯罪行為を抑止する、と決めてかかる姿勢がある。この姿勢の誤りは歴史を調べてみれば一目瞭然である。エリザベス女王時代のイギリスでは、些細な盗みで、身体の切断や絞死刑に処せられ、極めて厳しい懲罰が盛んに行われた。だが、罪人に課せれる多大な価値の喪失にもかかわらず、高犯罪率は一向に減らなかった。そこには、侵害行為を抑制するのは厳罰ではなく正義である、という理由があるからなのだ。侵害行為の証拠が示す以上に厳しく加害者を処罰することは、被害者への適切な賠償に必要な価値の支払いを上回る価値の喪失を課すことであり、加害者に不正を働くことに等しい。ところが不正は不正の抑止にならない。過剰な懲罰で処分される被告は、当然の如く犠牲を被ったと感じる。自分の受けた仕打ちに正義を見出せない被告は激しい憤りを覚え、できるだけ早く「社会にお礼参りする」意志を頑なにする。このようにして侵害行為の処理においては、過度の厳罰は、過剰に緩い処罰同様、更なる侵害行為を誘発する。不正に対する正当な答えは正義しかないのである!正義は、加害者に過度の厳罰を与えることでも、復讐することでも、平和主義で対応することでもない。正義に仕えるためには、加害行為で生じた債務の返済を加害者に課す必要がある。

正義で人を扱えば、本人自身の利己に則った行動を誘発し、本人自身と本人の生活を改善する助けとなる。これを加害者に適用すると、正義は加害者に、被害者に負う債務を返済してる間と後に、非強要的で正直な生産的生活への動機付けを行い、そうした暮らしができるよう誘発する。正しい正義の信号は、人に正しい進路を選ばせる合図を送る。正義は誤った行為を罰するがそれに値する罰しか与えない。正義は正しい行為には報酬も与える。不正の信号は間違った合図で人を惑わす。加害行為への償いを加害者に課さない不正は、加害者に「罪は儲かる」と教え込み、罪を更に犯す方向へ奔らせる。被害者に負う真の債務より厳しい懲罰を加害者に課す不正は、加害者に他人の正義は当てにならないことを知らしめ、加害者本人が他人を正当に扱うことにも意味を失わせる。そして本人はこの世の中は食うか食われるかの世界で、最善の道は「自分がやられる前に他人にしてやる」ことだと結論付けてしまう。正義だけが正しい信号を送る。それ故、正義だけが侵害行為を満足に抑止する。

自由市場が侵害行為を処分する仕方に付け込もうとする者が現れてくるという反対意見もある。これはその通りであるが、他のどんな社会システムでも言えることである。だが、自由市場の場合には、間違いや不正が自己修正されるという大きな利点がある。競争でそれぞれの業務が秀でなければならなくなるため、自由市場にある組織は、生存のために己れの間違いを自ら正さなければならない。一方、政府は、秀でることではなく、強要することで生存する。従って、政府組織の間違いや欠陥は、(普通)殆ど永続し続けることになり、その間違いも通常更なる間違いで「修正」を受けて行く。従って、必然的に、侵害行為を取り扱う分野を含めどの分野においても、私有企業は政府より常に優れている。