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第II部、レッセフェール社会

第8章、 生命と財産の保護

人には生きる権利があるので、己れの命を守る権利がある。自己防衛の権利がなければ、生きる権利と言う言葉に意味が無くなる。攻撃に対して人に己れの命を守る権利があるのなら、人には己れの所持品全てを守る権利もある。なぜならば、こうした所持品は己れの時間と労力を投資した(言うなれば、己れの命の一部を投資した)結果であり、従って、己れの命の延長だからである。

平和主義者は、人が自衛するためなら暴力の行使は道徳的である、ということを否定し、人間に対する物理的強制力の行使はどんな事情があろうとも決して正当化できない、と反論する。そして、自衛のために暴力を使えば攻撃を仕掛けてくる人と同類に成り下がると論説する。こうは論説するものの、事実に基づいた証明をしないで、他の全てがこの基準で判断されるべきであると主張して、恣意的な原則として扱うのみである。

全ての暴力は悪であると主張することは、殺意のある殺人と自己防衛の道徳的違いを無視することであり、殺人にスリルを覚える狂人の行動と、自分と家族の命を守ろうとする人の行動を同等に見ることである。この様な馬鹿げた見解は、一応道徳的原則に則っているとされているものの、実は正義の道徳的原則を完全に無視した主張なのである。正義は、他人をありのままに評価し、客観的にみて相応した扱い方でそれぞれの人に接することを要求する。正義に揺ぎ無い精神を持つ者は、徳のある人には尊敬と敬意の念で接し、人の生存に危害を与える者には軽蔑と非難の念で理性的に対抗する。危害に口頭では非難するが非暴力のまま服従するのは、言うこととやることが正反対の偽善者のする振る舞いである。偽善は実は、平和主義者の括弧付きの「道徳律」から身を守る唯一の頼みの綱なのである。

正義の原則を無視する事は、善を罰し悪に貢ぐことである。平和主義は、ありとあらゆる暴漢の暴力行為を継続させる上、信者が信心深く願ったところで暴力行為は止むものでもない(願いで現実は変化しない)。平和主義的な振る舞いは、犯罪者に罪は儲かると教え、より多くのより重大な危害に拍車をかける。この様な不正への措置は不道徳であり、不道徳である故、実践的でもない。「平和主義者の自由社会」がたとえ実現したとしても短命に終わる。か弱い子羊たちのそのような社会は、子羊の犠牲をむさぼろうと世界中の狼たちを知らず知らずのうちに誘い寄せてしまうからだ。正義は自由社会の継続には欠かすことができないのである。

不正に対して行動で対抗しようとしない平和主義が不道徳であるということは、逆に言えば、つまり、犯罪から自分の身と財産を守れるときにはいつでもそうすることは、全ての者の権利であるばかりでなく、全ての者の道徳的責務でもあるということになる。それは己れ自身への責務である。何をどれだけ尊び、守るために何を失っても構わないのか、を知り得るのは己れ自身だけなのだ。

自己防衛は個人的責任であるという事実があるからといって、誰もが自分の家を軍事要塞にして外出時には必ず拳銃を携帯しなければならない、ということにはならない。自分の健康に気をつけることも個人的な責任であるが(確かに小生の健康の面倒を見るのは他の誰でもない)、だからと言って、全ての人が医学専門科目を大学で延々と勉強し自分用の病院を建て手術が必要になれば自分で自分を手術しなければならない、ということにはならない。自分の責任を果たすには自分で面倒を見るか、これが不可能もしくは実践的で無いときには誰かを雇って自分の代わりにやってもらえばよい。これはつまり、自分自身とその他の尊いものを守る権利と責任は、本人自身の指名があれば、雇われた代理人でも執行可能であるという意味である。代理人は本人が権利を持つ行動なら何をしても構わないが、本人に権利のない行動(他の誰かに暴力を先に振るうことなど)をとることは許されない。

自由提唱者の中には、この代理人が「自発的」政府になるべきだ(或いは、ならなければいけない)と提案している。この提案は即ち、社会の人々が自衛を代理する人が必要であることを理解し結束し合い、その社会にいる人々を守る代理人として行動することだけが許される限られた政府を構築してみようと言う構想である。そしてそれぞれの者が自分自身のための報復的な暴力の行使を自ら放棄し、政府に守ってもらい、争いが起きたときには最終仲裁者にもなってもらう。個人の自衛の代理人としてだけしか働かない、このような「自発的」政府は、表面上華々しいように見える。だが、よく調べてみると稼働不能だと分かる。なぜなら、政府は、たとえどんなに制限を受けていたとしても、所詮は強制的な独占だからである。強制的で且つ自発的な制度などありえない。たとえ税に頼らないで政府が賄われ、政府のサービスを民が強制的に買わされるようなことがなかったとしても、政府は政府分野の競争を禁止しなければならないのであり、そうしないと政府が政府として存在できない。 この「自発的」政府は、「当店の品を存分にお買い求め下さい。購入しないのも自由ですが、当店以外からの購入はお控え下さい。」と看板を立てる食品雑貨店と同じような立場にある。従って、「自発的」政府は民の自己防衛を強制的に放棄させ、政府の防衛のみを強制的に買わせて、民を「守る」ことになる。この時点で、民はこの「護衛役」から身を守ってくれる他の誰かが是が非でも必要になってくる。

自己防衛の権利と責任は表裏一体である。自発的に誰かを雇って自分の代わりに自衛してもらうことはできるが、強要的な独占に自分のその責任を譲渡しておきながら、その権利をまだ自由に執行できると思ったら大間違えである。自衛の代理人として政府を「雇う」者は、強要的な独占と関係を持つ正にその行為によって、「護衛役」から自衛できなくなってしまうのである。自衛の代理として働く「自発的」政府とは、意味を成さない矛盾した概念なのである。

政府を推奨する人達が、「自衛は市場取引の材料にはならない、なぜなら『強制力は他の物資やサービスと異なり、正にこの性格により市場外の現象であり、市場の一部になりえない』からだ、」と反論している。この主張は次の二つの要素からなる。強制力が使われると、

  1. 1.

    取引は自発的でない、

  2. 2.

    売買の両者が得をする取引にならない。

この主張の誤りは先制的な強制力と報復的な強制力を区別しないことにある。市場現象は、売買する当事者が誰に対しても強要を働かせないで、物資やサービスが自発的に交換されることを言う。先制的な強制力は市場を破壊するため、確かに市場現象ではなく、なりえない。だが、報復的な強制力は市場を破壊しないばかりか、市場を破壊する障害を抑制し、加害者には償いを強制する。

個人が自分のために報復的な強制力を行使すれば、この行為はもちろん市場現象ではないが、これは自分の車を修理するのが市場現象ではないのと何ら変わらない。ところが、自分を守ってくれる(必要なら報復的な強制力を働かせる)代理人を雇えば、自分の車を修理するのに修理屋に頼むのと同様、この行為は正に市場現象となる。

例えば、勤勉な私営の貨幣製造業者が、職務中強盗にあう可能性があると判断したと仮定する。業者は大柄で強そうな警備員を雇うことで、市場取引を遂行する。業者と警備員との間の契約は、業者のお金と警備員のサービスの自発的交換について規定する。警備員のサービスは護衛と作業員並びに財産の緊急時における物理的防御からなる。 つまり、先制的な強制力による被害の危険性から業者の作業員を保護、防衛する報復的行為をこれが可能な時にはいつでも行動に移すことを警備員が了承したということである。次の夜、武器を所持した泥棒が作業場に侵入し、遅くまで働いていた主人を襲った。警備員は報復的強制力で上手く襲撃をかわし泥棒を取り押える。この行いで警備員はこのことに関する業者との契約を守ったことにある。この契約で警備員が行使した報復的強制力は市場現象の一部になっていることは明らかである。

「強制力は市場現象ではない」と主張する者たちは、警備員と泥棒との間の強制力の「やりとり」を周囲の事情から全く切り離して考えている(置かれた状況を無視する間違いを犯している)。警備員と泥棒との「やりとり」が自発的なものでもなければこれで両者が得するわけでもないことは確かである。実際、これは市場のやりとりでさえない。実の市場現象のやりとりは業者のお金と警備員のサービスである。このやりとりは自発的で、双方が恩恵を被り、どちら側も先制的な物理的強制力を誰に対しても行使していない。貨幣業者と警備員の間の関係は、取引する当事者の強要が全く誰にも働いていない自発的なやり取りであり、明確な市場現象である。

強制力はこれ自体としては市場現象ではないが、自己防衛の代理人を雇うことは市場現象である。「強制力は絶対に市場の一部になり得ない」という主張は不明確過ぎて理解する上で意味を成さない。

レッセフェール社会では、政府の警察力がないが、だからと言って、人々は自分で対策を講じない限り誰も守ってくれないということにはならない。起業家が利益の上がる事業刷新はないか目を光らせているため、市場は常に顧客の求める方向に動いて行く。これは即ち私営の警備斡旋業が、おそらくは、今日の大手私営探偵業者などの参入で出現してくる可能性がある。こうした探偵業者は財産の保護と犯罪の検出に関して、効率的で有意義なサービスが提供できることを既に実証している。

政府の警察力に比べ私営の警備斡旋業はどの程度洗練された機能を発揮するのであろうか?この質問に答えるため、まず警備斡旋業と政府警察力の役割を明らかにしてみる必要がある。

私営の警備斡旋業の役割は、先制的な強制力又はこの代替手段から顧客の身体と財産を守ることにある。これは来客が望む通りのサービスで、このサービスを競合する他の警備会社に勝るとも劣らない質で提供出来ないのなら、顧客を奪われ倒産してしまう。開かれた市場で競争している警備会社は強制力を使って顧客を維持することはできない。もし客になるよう人々に強要すれば、人々はその強要から守ってもらおうと競争相手の顧客になってしまい、商売にならない。警備会社がお金を稼ぐ方法は、危害から顧客を守ることによってのみである。これがこの業種の唯一の役割であり、その役割が存分に果たされることは、利潤追求が保証する。

さて、政府警察力の役割とは何であろう?独裁政治の場合には明らかにそれは政府を守るためにある。住民を犯罪から守る護衛(護衛と呼べれるのなら)は、社会を均等にひざまずかせた結果でしかなく、統治者が揺るぎ無い支配をするためである。そしてもちろん、住民は政府からは全く守られない。

民主主義国家では住民を守ることが警察の役割であると広く信じられている。ところが実際には、警察は(大統領など政府高官を除いて)住民を守ることはしない。警察は、犯罪者が犯罪を犯した、その内の数割を逮捕して罰するだけである。悪者が君の家を強盗しようとしていると君が疑っても、警察の答えは、「すまないが、警察は犯罪が起きてからでないと動けないんだよ。」である。強盗され負傷して初めて警察に捜査を依頼できる。そして警察が悪者をもし捕らえたとしても、君のけがの治療費代でさえ払わせないで、「犯罪の学校」にしばらくの間閉じ込めておくだけ。悪者は強奪の仕方をそこで学んで、次の犯罪を練る。

それでも、警察はその存在自体が犯罪を思いとどめさせるため(ただし、犯罪率の急増でこのことにも人々が疑い始めてきた)、正直な民を間接的に守っている、と大抵の人が思っている。しかしこの理論は、警察によって強制される政府の禁止令が闇市を築き、闇市が大規模な犯罪組織を生む(第11章を参照されたし)という事実を考慮に入れていない。

闇市は(普通、庶民は愚か過ぎて自分で自分を世話しきれないという仮定の下、そんな「庶民を世話する」という口実で)政府が禁止する市場分野であり、このことを除けば普通の取引分野と何ら変わらない。闇市で取引を行う人々は、最初から禁止されるべきでない取引を単に行っているに過ぎない。即ち、政治家や官僚の許可をわざわざ得るようなことをせず、自分の幸福度を益すため物資やサービスの売買を行っている。取引される商品自体に何の問題も無いのであるが、闇市が禁止された市場である故、リスクが生じる。 この危険性のため、温厚な人々はこの禁止領域の取引から弾かれ、高い利潤のためにリスクを敢えて冒す乱暴者が寄せ集められる。特に闇市は大規模な犯罪組織に加わる組員を寄せ付け、育成する。実際、賭博、売春、麻薬などの闇市を犯罪組織は主な支えにする。平和的に好んで人々が取引することを禁止する法律を警察が強制することで、犯罪がはびこる社会環境を生み出しているのである。政府の禁止が原因で暴力沙汰の絶えない売春や賭博の闇市から数百万ドル儲けるマフィアの大親分に比べれば、警察がいるだけで恐れおののくこそ泥の話など、全く取るに足らない。

政府の警察は、犯罪を減らすよりむしろ増加させているだけでなく、議員が道徳上適当とみなす振る舞いを全国民に強要して個人を侵害する法律を数多く強制する。ポルノ(司法でさえこれが何だか分かっていない)や公衆での淫らな服装で本人やまわりの人々の精神を汚してはならないとして、警察はしっかり見張り番をする。大麻は危険と想定されるため、使用を阻止しようとする(1920年代には酒類も禁止されていたが今はもうにらまれなくて済む)。更に、婚姻、離婚、性生活の規則まである。

このような個人への侵害を警察は守ってくれない。それどころか、侵害する法律を強制する方で忙しい!また、政府が犯す多くの人権侵害からも守ってくれない。徴兵で奴隷となるのを免れようとすれば、警察は徴兵される側でなく軍の味方をする。効率的な私営の防衛施設事業を築き顧客に真の保護(政府からの保護も含む)が提供される可能性も警察は阻む。実際、警察は個人の自己防衛をよく阻害する。例えば、ニューヨークでは一番犯罪の多い区域でも自衛に有効な器具の所持を女性に許していない。銃、自動ナイフ、催涙ガス等は法が禁止する。もちろん、犯罪者は法を無視する。しかし、温厚な庶民は武器を実質的に失い、悪の出来心次第の状況に置かされている。

警察は庶民が自分の身を守ることを殆ど不可能にし、闇市を生み出して犯罪をはびこらせ、馬鹿げた役立たずの「道徳」法で個人を侵害することによって、犯罪者や政府から庶民を守らないだけでなく、税金の支払いにも住民を攻め立てる!もしある住人が警察の「保護」はいらないと申し立て、政府と警察を賄う税金の支払いを拒むことによって抗議したとすれば、警察がその住人を取り押えにやって来て、政府が罰金と懲役を課すことで、先制的強制力が行使される(警察の先制的な物理的強制力の行使からその住人が自分の身を守ろうとしなかったならばの話。もししていれば、本人を埋葬する費用は残された家族が負担しなければならない)。警察は法を盾に、史上最も無難な「用心棒料」取り立て法を駆使しているのである。

民主主義の警察が住民を守るためにあるのではないのなら、警察の役割とは一体何であろうか?本質的には独裁制の警察と変わりがない。よって政府を守ることである。民主主義では、現行政権は常に社会秩序体制の産物であるため、民主主義の警察の役割は、その体制がいかなるものであろうと、その社会秩序体制を保障することであり、従って、政府を守ることである。通常、警察はこの役割を問題なく果たす。

私営警備企業が優秀である理由は、強要から顧客を守ることが企業の唯一の役割であり、この役割をうまく果たさなければ商売が成り立たないと言う事実にある。

顧客の安全保障が警備企業の主な目的であるため、業務の基本は犯罪防止に向けられる。工場や店舗に警備員を配置し私道でパトロールさせ、事務所に直結した防犯装置を個人事業者や家庭に取り付ける。電話交換機やパトロール車両、更に、おそらくヘリコプターも維持管理して緊急時に備え、危険を感じている顧客には、最も有効で安全な携帯用護身具(催涙ガスのペンやピストルなど)の使用法や購入法を状況に応じて助言する。おそらく最終的には、装置が作動すると防衛司令室に通知が送信されるような、ポケットに入る程度の小型防犯装置を顧客に付けてもらうようになる。こうした製品の普及の他に、それぞれの企業が護身用具の新製品開発で鎬を削るため、犯罪を犯そうとする者にとっては動きが非常にとりづらい環境を作り出す。

私立警備斡旋業にとって防犯業務は利益の上がる商売になるが、犯人を罰として投獄する政府式のやり方では商売にならない。(恐喝で成り立っていた税収がなくなれば、誰が囚人の生活費を賄うのか?3030レッセフェール社会で発達してくる更生施設については第10章で扱う。)ところが、政府のある社会では、警察は防犯したところで何の得にもならない。実のところ、防犯し過ぎると警視庁の仕事が無くなってしまう(警察は犯罪者を逮捕、処罰することが仕事なので、仕事上、多くの犯罪を必要とする)。いずれにせよ、多くの警察官の仕事がかかっているため、プロパガンダとは裏腹に、高犯罪率と満員の刑務所を改善しようなどといった衝動が警察から生まれてくる筈がない。

守りをどれだけ固めようと、どれだけ守りが優れていようと、全ての犯罪を防止できるわけではないので、警備企業は先制的な暴行と詐欺に備えておく必要がある。そのため、探偵事務所や優れた犯罪鑑識施設、詳細な犯罪歴名簿を維持管理し、あらゆる分野の専門家を科学捜査のために雇い入れる。また、危険な犯罪者を逮捕するための機器と人材を備え、勾留と輸送のための厳重な設備も整える。付属的に更生施設も運営する可能性もある。政府警察の強制とは異なり、こうしたサービスは効率的で効果的であるばかりでなく、費用も格段に低く抑えられる。自由市場で競争する企業は可能な限り安価に商品を提供しなければならない。値段を市場価格に抑えなければ、競争相手に仕事を奪われてしまう。ここが競争のない社会主義化された制度と著しく異なる。また、私営の警備サービス業は、圧政的な馬鹿げた法律で「規律ある道徳的生活」を全国民に無理強いしたり(例えば飲酒、麻薬、賭博、売春、裸体に関する法律)、「公共を守る」(免許制や独占禁止法)ことや、巨大行政自体を支える(租税法)ために会社資産を浪費する必要もない。

私営の警備会社の従業員には、政府警察官を守るような法的免責はない。従業員が罪を犯せば、他の個人同様、償いをしなければならない。警備会社の探偵は、政府の制服を盾にしたり、政治的な権力を背景に、容疑者を殴るようなことはできない。警備会社もパン屋や拳銃製造業者などと全く変わらず、先制的な強制力を行使したり詐欺をすれば、免責で逃れるようなことはできない。(この証明については第11章を参照されたし。)このため、囚人を含め他人に先制的な強制力を働かせようとする傾向のある従業員は、警備サービスの会社の経営者が直ちに解雇する。そのような従業員を雇い続ければ会社に恐ろしい程の経済的負担になる。警備業の仕事は、警察の仕事のように権力職で他人を指図する立場にないため、警察職と異なり、他人に権力を振るうのを好むような連中を引き寄せるようなことがない。おそらくサディストにとって警備業の仕事は最も危険な最悪の職種になるはずである!

公務をする警察は残虐行為をしても済まされる。一際目立つ事件を除いては殆ど全て起訴を免れ、警察の「お客様」は真の護衛をしてくれる私立警備サービス業に逃げこむことすらできない。だが、自由市場で警備サービス業が残虐行為を働けば商売上の大損害を意味する。政府の警察のように強制力が最初に用いられるようなことは全くなく、報復的な強制力でさえ常に最後の手段でのみ行使される。

レッセフェール社会では、財産が保護され攻撃的な暴力が最低限に保たれることに経済的関心を持ち、従って、警備業と関係を自然と深めてくる業種が、警備業界以外から発生してくる。それは保険業界である。

保険業界が警備業に興味を持つ主な理由は次の二つである:

  1. 1.

    攻撃的な暴力行為は保険会社の負担になる。

  2. 2.

    社会が安全で平和になればなるほど価値の生産が増大し、価値の生産が増大すればするほど保険で保護する必要性も増し、従って、保険の売上の拡大で利潤が上昇する(利潤追求が保険会社の主な業務目的である)。

保険会社の安全で平和な環境への関心は経済全体に渡る。即ち、保険業の関心事は市場のあるところと市場となりそうなところにまで及ぶ。

レッセフェール社会では、保険会社は様々な強要で生じる損失を補償する保険証券の販売を行うことになる。この様な保険が普及する理由は火災保険や車両保険の普及と同じである。即ち、予期できない危機から生じる経済的打撃から回避する手段に保険が利用される。保険会社は大きなリスクを伴う事象への保険を他の保険と同じ保険料で提供するわけには行かない。そのため、顧客が最低価格の保険料で保険証券を購入するには、おそらく、警報装置が警備会社の司令部に直結していることなど、保険会社が指定する基準で防犯機能が整えられていることが条件化される。役に立たない無責任な警備会社と顧客が安い契約を交わし、効果のない安全対策が原因で顧客に損失が生じたとしても、加入者が契約先の保険会社の定める基準を満たした警備会社からのみ安全保障を購入しなければならないと保険証券で条件化していれば、保険会社は補償を回避できる。

強要損失保険に加入した人が非常時に警備会社に連絡して救助を依頼した場合、その救助が保険証券に対応していれば、救助の代金は保険会社が負担することになる。強要損失保険に加入せず、どこの警備会社とも何も契約をしていない人でも、暴漢から襲われたなら、近くの警備会社に連絡を取って救助を頼み代金を後で支払うことが出来る。これは救急医療の問題と何ら変わりがない。事故の犠牲者は、本人自身が救助を求め代金を支払っているかどうかにかかわらず、常に病院へ緊急輸送され応急手当を受ける。人命尊重に加え救助する警備会社の良い宣伝になるため、暴漢の被害者にも同様にして警備会社の救助がやってくる。

保険と防衛の間に密接な関係があることから、大手保険会社の幾つかはおそらく独自の警備業務を経営し、顧客に便利な安全保障のセット販売を行うようになる。他の保険会社は頼り甲斐のある個別の警備会社と関係を密にし、保険約款でこうした業者を推奨するようになる。保険と防衛のこの密接な関係は、人権を犯して強要的に、即ち、非防御的に強制力を働かせようとする警備会社を監視する大変有効な仕組みを作り出す。強要的な行為は財産の破壊に繋がり、保険会社の経済的な負担となるため、どこかの警備会社が暴行を働けば、どこの保険会社も黙って見過ごすわけには行かなくなる。その件で生じる損失の補償がたとえ競争相手の保険会社の責任にあったとしても、やがてはその犯人が自社の顧客に暴力を振るい、自社の大きな負担につながるからである。

保険会社は物理的な強制力に頼らなくてもボイコットや業界追放などの措置をとることによって、杜撰な警備会社の行儀を正す非常に有効な要素となる。工業化の進んだレッセフェール社会では、商業と工業は顧客を最も多く集める経済の要であるため、特にこの分野で保険は極めて重要な役割を担う。大手の保険会社がある特定の警備会社を保険約款で除外するばかりでなく、その警備会社と取引する人とも契約を交わすのを拒否すれば、その警備会社が生き残って行くのは事実上困難になる。このようなボイコットは警備会社の市場シェアを忽ちのうちに枯渇させるため、たとえどのような商売であったとしても顧客を取れないので持続しない。警備会社は強制力の行使でボイコットを止めさせようとしても無駄である。強要的な業者には他の商売や個人はできるだけ関わらないようにするため、保険会社への恐喝や暴行はボイコットを更に拡大させるだけの効果しか得られない。個人に己れの理性的な利己に則って行動する自由が常にあるレッセフェール社会では銃で人の心は奪えない。

もちろん保険会社がそのようなボイコットをすれば、顧客を少なからず失い会社に不都合になる。そのため会社は極力避けようとする。即ち、警備会社に落ち度があることがはっきりしない限り、会社はそのような行動は採らない、ということが言える。落ち度を示す証拠もなく行えば、ボイコットは逆に会社側に反旗を翻し、自殺行為になり兼ねない。一方、強要の意図がうかがえる明確な証拠が見つかったなら、犯行が拡大して行く恐怖感が慎重さを圧倒するのも時間の問題となり、事実を整理して、行動を起こすようになる。マスコミはもちろん飛び付いてくるため、話を伝える強力な味方になる。

保険業界は命と財産が守られ先攻的な暴力が最小限に抑えられることで利益を上げ、大規模で多彩な人材と資源を保有する強力な業界であり、警備サービス業界の天然の監視役として働く。(別のこのような監視機構については第11章で考察する。)市場が妨害を受けないとき、市場が最大秩序と最大生産の方向へ絶え間なく移動して行く実例が正にここにある。市場には平衡状態へ移行して行く固有の仕組みが内在し、これが全ての温厚な個人が遠い将来に向かってなめらかに辿って行ける最善の道を自然な形で築いて行くである。この仕組みは、他の分野同様、価値を保護する分野でも整然と機能する。政府がこれを執拗に邪魔する障害となっている。