自由と平和と正義は、人が潜在力を発揮するための必須の社会秩序であるにもかかわらず、これを犯す者に対する扱いを制度化せずに人が社会秩序を構築した例は有史以来存在しない。この原因には、思想家が以下の三つの事柄を明確に突き詰めて理解していないことにある:一つ目、人間の本性。二つ目、人が潜在力をすべて発揮するためその本性が必要とする社会とは如何なるものかということ。三つ目、そのような社会をどのようにしたら実現、維持できるのかということ。
社会の独断設計者・創設者の頭には、大抵の場合、人にはある特定の性質があるということなど、片隅にも浮かんでこない。人間を何か限りなく変形可能な文化的または経済的環境の産物であるかのように思ったり、自分たちの意図に沿う型にはめられる自我のない一種の塊であるかのように思ってきた。人間はある特定の性質を持ち、ある特定の機能を備えている、と気付かないが故、社会設計者が好き放題に人を分解改造しようとしたことで、無数の悲しみと流血を招いてきた。
人が人間である以上、それ特有の性質を有するが故、人が人間として正常に機能するにはある特定の性質をもった社会が必要となる。ダーウィン以来、科学は人間という動物の本性の発達を示す進化の証拠を着々と解明してきた。人は生存のためにある一定の行動知識と能力を学び取らねばならない。例えば、殴り合いをやめて自発的協力をした方がよいという知識がそれである。大抵の人々はこの知識に沿って行動し、見張りがいなくても、仲良くやっていける。社会設計をする人々もまた、人の本性について一番無知な集団の内に過ぎない。人はある特定の生物学的性質を持っていて、社会創設者に合わせてそれを矯正することはできない、という証拠は積み上げられてきているにもかかわらず22参考図書は、ロバート・アードレイ著の「The Territorial Imperative」と「African Genesis」、デスモンド・モリス著の「The Naked Ape」。、政治支配者は無視し続けてきた。人が幸せで満足になるためには、人は人間の本性と矛盾しない生活をしなければならないのである。人の本性とは、それでは、一体何なのであろうか?
人は命を授かるものの、それを維持する手段は授からない。人が生き続けて行こうとするのであれば、自分の命を維持するのに必要な物を何らかの方法で取得していかなければならない。つまり、本人または本人以外の者がそれを産み出していかなければならない。何の生産的努力もしないで人が生存していける場所は地球上のどこにも存在しない。そして、何を産み出しそれをどうやって産み出すのか決断する思考無しには人は生産的になりえない。生きて行くためには、人は考えないといけない。認知した情報を活用しなければならない。また、頭をうまく使えば使うほど(物質的にも精神的にも)楽な生活ができるようになる。
ところが、思考は自動的に起こるわけではない。人は問題解決に向けてじっくり考えることもあるし、あまり考えないこともあるし、問題が無くなるのを願い無視することもある。(頭が良かろうと悪かろうと)頭をフル活用することを常に念頭に置いておくのも良し、考えなければならない状況でも集中せず何かで紛らわして漠然と生きていくのも良し、であり、頭を使うか使わないかの選択は人の自由で、それは誰もがしなければならない選択である。
思考作業を開始・維持することが人の選択行為なのだから、その人以外誰も考えろと押し付けられないし、代わりに考えてやることも不可能である。即ち、他人の生活をうまく営むことは誰にもできないのである。他人にしてあげられるのはせいぜい、本人の考えで稼いで得た利益で本人が贅沢するのを邪魔しないことや、本人が考えず働こうとしない当然の報いとして本人にふりかかる災いを本人が自分自身できちんと受け止めることに干渉しないこと位である。
人は命を授かっても、その命を維持する知識は授からない。損得の分別は自動的に身につくわけではないが、どのように生きるのか知るにはこの知識が必要である。幸福な生活を充分に営みたければ、何が生を育み何が生に害なのかを示してくれ、自分のする行為や選択を先導してくれる青写真が必要になる。そのような青写真が行動の手引き、即ち、道徳である。認知し考える動物として進化してきた人間としての生活を、不自由なものとせず、道徳によって満ち足りたものにするには、人は、人間の本性に適う道徳を道徳律として選ぶ必要がある。
行動についての実理的な手引きを選び出すことは、盲目的信仰や理のない気まぐれなどで決められるようなことではなく、明確で理性的な思考が必要とされる。従って、人の道徳律は、親や教会や学校で教わった、あれはよいこれはだめとかの寄せ集めであるべきではなく、生に害な行動は避け、生を育む行動へと導く、考え抜かれた明確な規約であるべきである。「道徳律の目的は楽しみながら生きることを教えること33アイン・ランド氏の小説「Atlas Shrugged」の登場人物ジョーン・ガルトの台詞。。」理性的な道徳律なら「神(または社会または法律家または『ならわし』)が悪と言うからこれはやってはいけない。」とは言わないが、「己れの理性に従って行動しさえすれば幸せで満ち足りた生活が営める。」とは言う。
道徳律であるためには、どのような目標や行為も判断できる基準がその規約中に存在する必要がある。命だけが価値に意味を与え、価値の存在さえも与える。死ねば価値は体験できない。(また、価値がなければ幸福感もありえない。)従って、生きることが大切だと思うなら、各々の人生そのものがそれぞれの道徳の基準である。(代わりとなりえる「基準」と呼べるものは価値を打ち消す死のみである。)それぞれの人生が人の道徳律の客観基準なので、当然ながら、その人の生活に役に立つことはすべて良い事で、害になることはすべて悪い事、となる。理性的な道徳律は、それぞれ個人の生活を満足させるよう設定されるが、このような道徳律においては、生を育む事はすべて道徳的であり、生に害な事はすべて非道徳的である。ただし、ここで言う「生」という言葉は、単なる人間の生存ということだけでなく、感知し考える生き物として生き抜く生活のあらゆる面を考慮した包括的意味も持つ。理性的思考と行動でもってのみ人は潜在力を最大限発揮し可能な限りの幸せと充足感で生き抜いて行けるのだ。
人が知識を得る術は知性ただ一つだけである。また、損得を知る術は判断力だた一つだけである。思考のみが生を育む事と生に害な事を教えてくれる。従って、頭を働かせる事は人の一番有能な道具であり、人の最高の美徳である。考える事を拒むことは最悪の危機であり最も確実な自滅への道である。
人の命が価値の存在を全て可能にするのだから、道徳とは利己行為のことで、己れの生を育む行動である。正邪に不可思議や難題が失せ、理性的道徳律がしっくりいく。人生を、己れのためではなく、神や国家や「みんなのため」に奉仕しなければならない、と説く昔ながらの「道徳」は人をいけにえとみている。今日、この説教の本性が数知れない殺戮の原因だと見抜く者は大勢おり、徐々に生の道徳に置き換えられつつある。理性的道徳律とは利己の道徳であり、それは生を育む道徳なのである。
何が自分の人生を満足させてくれるのかを悟るには、道理を経るしかない。従って、道徳とは理性的な利己作業のことである。(実は、利己にそれ以外の種類はない。なぜなら理性的なことのみ利己的であるからだ。)犠牲(価値の低いものや価値のないもののためにより価値の高いものを放棄する行為、または、自ら価値を減らす行為)は常に誤りである。なぜならば、犠牲を払う人の生活や幸福に損害を与えるからである44もし、母親が自分の着物の代わりにかわいい我が子に上着を買ってあげたなら、これは犠牲ではなく収穫である。彼女にとっては我が子の贅沢の方が自分の服より価値が高かったからである。しかし、もし彼女が地元の募金運動に人目を気にするあまり自己資金で募金したのなら、それは犠牲である。。昔ながらの「道徳」は、他へ尽くす犠牲の人生を賛美する。ところが、実際には、犠牲で得する者など誰一人いない。犠牲を払った人は自分が保持する価値の合計を下げるし、奉仕を受けた側は受け取ってしまった罪悪感の上、仁義だから今度はこっちが犠牲を払って「お返し」しなければならないと思い苛立ち、結局、双方共に道徳に反してしまうからである。犠牲を究極まで推し進めればそれは死である。犠牲とは、昔ながらの「道徳」の教えとは逆に、道徳、即ち、生を育む振る舞い、とは正反対のものなのである。
利己に従って行動している人(即ち道徳的に行動している人)は犠牲を支払わないし、他人の犠牲も求めない。他人へ犠牲を払うのも他人から犠牲を要求するのも利益にならないので、それぞれが利己行動している限り利害の衝突はない。衝突が起こるのは、人が己れの利己を顧みず、犠牲で儲かるという考えを受け入れてしまうからである。犠牲は常に生に害なのである。
要約:人間の本性の結果として、人が生きて行くためには、人は頭を使う選択をし、何かを作り出さなければならない。そして頭を上手く使えば使うほど、生活は楽になる。それぞれの命が価値体系を築くので、考える生き物として自己の生活を良くしようとして採った行動は真に道徳的であり、自分の生活を害するために採る行動は真に非道徳的である。(選択の自由がなければ、道徳性は不可能である。)従って、理性的な思考、行動、その感情的、身体的、物質的見返りは皆、人の利己の範疇である。利己の反対は犠牲で、人の生には破滅的であるため、犠牲は常に誤りである55客観主義的倫理学の更に進んだ議論は、アイン・ランド著「The Virtue of Selfishness」の第一章「The Objectivist Ethics」を参照するといい。ランド氏の著作は政治分野で今のところ混乱が見られるものの、倫理学の説明は大体優れている。。
人が潜在力を最大限発揮し理性的で生産的な人間として暮らせる社会は、人間の本性の基本的な事実に沿う形で築き上げられなければならない。無理やり他の誰かの基準に従って生活しなければならないのではなく、誰も苦しめられず、人々が己れの考えで自由に行動できるような社会でなければならない。個人が自由に行動できるばかりでなく、生を育む振る舞いの結果生じる全ての報酬も本人が自由自在に利用できなければならない。本人が稼いで得た感情的喜び、物質的品々、知的な価値(尊敬や賞賛など)も全て完全に本人のものでなければならない。他の利益のためというような名目で、その一部を本人の意に反して無理やり明け渡さねばならないようなことがあってはならない。たとえ「公共の福祉」のためであっても犠牲を強いられることがあってはならない。
己れの基準に従い平穏に生活し、且つ、稼ぎ全てを完全に所有できる自由が人にないのであれば、その人は奴隷である。最も巧妙かつ普及した形の奴隷制度では、「公共の福祉のため」に人を奴隷化する。奴隷の稼ぎを横取りしたい聖職者、政治家、偽思想家はこのやり方を絶えず提唱する。
それぞれの個人が己れの潜在力を最大限発揮できるような社会は、各々が自分で判断した利己に従って行動する事が自由にできる社会である。人を本人の判断に反して行動させるようにするには、他人が強制力を行使するか脅迫するしかない。様々な方法で人に圧力をかけることができるが、物理的強制力(或いは脅しやそれに代わる術)がなければ、本人は自分の意志に反して行動しなくて済み、自分の選択肢を自由にまだ実行できる。従って、物理的強制力(暴力)や脅迫またはその力に代わる術(隠れて奪い取るなど)を先制的に(つまり最初に)他人に行使する道徳的資格は誰にもない、ということが文明社会の一つの基本則なのである。
これは、他の誰かが先制的な強制力を行使してきたら自ら自衛してはならない、とは言ってはいないが、強制力を最初に行使してはならない、とは言っている。強制力を先制的に行使するのは常に誤りである。なぜなら、被害者が自分の判断に反する行為を強いられるからである。ところが、強制力に対して報復的な反撃で防衛をすることは、許されるばかりでなく、適当と判断されるとき、或いは、適度に安全が確保できるなら、常にするべき道徳行為なのである66報復的な反撃は本質的に防衛であり、強要とは異なる。強要とは先制的な強制力や脅迫、または強制力に代わる術のことである。。もし自分のものを本当に大切だと思うなら、人は自分自身に対して防衛する道徳的責任があるのだ。防衛しなければそれは犠牲的で、従って、自滅的である。先制的な強制力と報復的な反撃の違いとは殺人と自衛の違いである。(襲われても一貫して防衛を拒む平和主義者は殺される事が多い。平和主義の信仰は生を害する。)
先制的な強制力を働かせない限り、本人が自ら選んで追求する現実の目標や関心事は、他人の選択の自由や目的を脅かすことはない。銃や政治家を使って自分の思い通りに他人に指図しない限り、人が毎日教会に通おうと、無神論を主張しようと、髪を長くしようと短くしようと、毎晩晩酌しようと、麻薬をやろうと、全く素面でいようと、資本主義を信じようと、自主的な自治主義を信じようと、問題は起こらない。人が自分の事に従事して、他人に先制的な強制力を行使しない限り、誰の生活様式も他人の邪魔になることはない。
ある人が別の人に強制力を先制的に下したなら、被害者の権利が犯されたことになる。権利とは、人が強制力かそれに代わる術を強要的な振る舞いをしていない相手に行使することを道徳的に禁止する原則のことである。権利は道徳的な禁止令であり、権利を行使しようとする者のとる行為については(その行動が強要的でない限り)特に何も規程しない。そうではなく、人のいかなる非強要的行為に対しても他人は強制的な干渉をしてはならないことを道徳的に禁止するのである。例えば、浜にルンペンがいたとする。ルンペンは自分の生存の権利を持っている。この権利は、ルンペンがその命で何をしてよいとは特に何も指定しない。が、ルンペンが他人に先制的な強制力や詐欺などを働いたりしない限り、他の誰もルンペンの生存を力ずくで邪魔してはならない、とだけは規定している。もしルンペンがタクシードライバーに先制的に強制力を行使し、タクシーの車両に100ドルの損傷を負わせたとする。この不正を正すためには、ルンペンはタクシードライバーに100ドル支払う必要がある。すると、ルンペンにあった生存や財産の権利は弁償に必要な分だけルンペンのものでなくなる(タクシードライバーが正当に請求できる)。更に、ルンペンが100ドルの支払いを拒んだと仮定したなら、タクシードライバーがルンペンに対し強制力を行使して正当な分だけ取り上げることはもはや道徳的に禁止されなくなる。自分から先に強制力を下し他人へ損害を与えたことで、このルンペンは生存の権利の一部を債務の分だけ自分から放棄したことになる77この問題は、第10章「第10章、 不正の是正」で更に細かく議論する。。権利は人から切り離し不能であるわけではない88【訳注】米憲法の『人から切り離し不能』な権利の下りと対比的に表現している。米憲法条文のこの箇所は、しばしば、『絶対的な権利』などと訳されることがあるが、絶対とか相対とかでは本来の意味(切り離せないということ)がうまく伝わらない。。が、権利を持つ者だけが、その権利を放棄できる。人から権利を取り上げることは他の誰にもできない。
人はそれぞれが自分の生命を所有する権利を持つ。従って、一人一人が自己所有者である(それぞれが強要的な振る舞いをしてこなかったと想定している)。人が自分の命を所有する権利を有するということは、人は自分の命のどの部分にも同様の権利を持っているということである。財産も人の生命の一部である。様々な品々はその生命を維持するのに必要である。人が考え出す知恵も同様である。それ故、人は時間をかけて知恵や物を作り出し品々を維持する。人生は時間の区切りであるから、人が物や知的財産に時間をかければ、そうしてできた財産は人の命の拡張になる。つまり、財産権は生存権の一部なのである。財産権こそ人権であるため、財産権と人権との間には矛盾はない。
人の命のその他の側面としては、行動の自由がある。もしある人が(先制的に強制力や不正を行使しない限りにおいて)頭や体や時間を自由に使って自分の意志通りに行動できないのなら、程度の違いはあるにせよ、その人は奴隷である。自由権は、財産権同様、生存権の一部である。
すべての権利は生存権の一部である。従って、人一人一人が自分の生存の全ての側面において権利を所有している。同様にして、人は他人の命のどの一部にも権利を有しない(他人が先制的強制力や不正をその人に働いていないとして)。他人の権利を犯す「権利」など存在しない。権利を侵害する権利があるとすれば、権利の意味が失われてしまう。人には最低限の生活が営めるよう努力する権利はあるが、他人の稼ぎを無理やり徴収してまで最低限の生活をする権利はない。即ち、他人に自分の生活を無理やり支えさせることで他人を奴隷化する権利は人にはないのだ。たとえそれが政府の通した法律でその人を養う税制だったとしても、その人にそのような権利はないのである。一人一人が自分の命の所有者であり、他人のものはその人以外他の誰も所有しないのである。
権利は神や社会からの贈り物ではなく、人の本性と現実の産物である。人が人として最大限の潜在力を発揮し生産的で幸福な人生を送るのであれば、人は他人の強要から解放されていなければならない。人の本性には、人は価値と目標を持たなければ生きていけない、という性質がある。人はそれがなければやっていけない。もし人が自分の目標を自分で決められないのなら、自分の生活に調整が加えられず、間違いを是正できないため、うまく生活していけなくなる。人が価値観や目標を自分で決定することを他人から強制的に否定されたなら、その人は奴隷である。奴隷制と自由制は正反対であり、共存できない。
権利は個人にしか意味はなく、少数派の権利、国の権利、民権、その他の集団権などはありえない。集団に対する先制攻撃とは実は集団を成す個人個人への先制攻撃である。なぜならば、集団はその集団を構成する個人の実在以外、実体を持たないからである。従って、集団権は存在しない。他人の強要から逃れる権利は全ての個人にしか存在しない。
道徳的には人は各々が自分自身を所有し、他人の自己所有権を犯さない限りにおいて何をしても良い権利も持っている。権利が犯されるのは強要でもってのみである。人間の本性の必要性に沿う社会が先制攻撃の禁止を基盤とした、レッセフェールの社会でなければならない理由がここにある。
レッセフェールとは「人に好き放題やらせなさい」という意味で、他人のすることは誰もが放っておくことを意味する。レッセフェール社会は無干渉の社会で、自分の事は自分でやる、相互容認の社会である。これは、自分のことは、経済的な面ばかりでなく自分の生活のどの分野でも、自分の好きなように自由に処理できることを意味する。(自分のことだけに限れば、他人に先制攻撃できないのは明白である。)レッセフェール社会では、人に生活様式を押し付ける者や、国の行政のために税を収めさせる者や、随意に行う任意の取引を禁止する者は誰一人としていない。
人は理性のない行動を取ろうと思えば取れるので、人が別の人に先制的な物理的強制力を与えることの全くない社会は多分絶対にありえないだろう。レッセフェール社会は先制的暴力が不可能な理想郷ではないが、先制的強制力(暴力)を制度化せず、且つ、たとえ先制攻撃が起こったとしても正当に対処できる術の存在する社会である。
レッセフェール社会を人類はいつしか実現できるであろうか?多くの人は、そんなにも「理想的な」社会が実際に現実となることは絶対ないと揺るぎない確信を持つ。だがどうしてそんなにも自信満々に言い切れるのかが説明できない。説明できない「確かさ」からきっとそうに違いないと感じるだけなのだ。善(自由)は達成不能と思うこの道理のない「確かさ」の原因は何なのだろう。答えは、正反対の所謂「道徳」になっている昔からある利他主義にある。
利他主義は他人の福祉を考慮して行われた行為は全て良しとし、己れのための動機ですることは悪とする哲学的教義である。人類史上世界中の殆ど全ての宗教や哲学でこの種の教義が基本を成してきた。最もよく見られる宗教的な教理が、自分勝手は悪であり、他人のことを思ってした無欲的な行為のみが神や人の心を引ける、というものである。犠牲は、享受する側が他人、奉仕する側が自分、というだけの理由で、人徳のなかでも最高位を占めるとされる。利他主義の教理が長期に渡って重要な役割を果たしてきた理由にも納得がいく。なぜなら、宗教や政治の指導者は、己れの理性的な利己で生きる人々からよりも、他人へできる最大限の犠牲的奉仕は道徳的責務だと納得させることができた人々からの方が格段に多量の供物や税を集めることができるからである。この「無から産み出す」教理の利他主義こそ、人に寄生する者にとっての道徳経典なのである。
利他主義は真逆の道徳律、所謂、死の「道徳」である。己れの得は他人の損につながり、己れの得を犠牲にすることだけが「道徳」的だと人に説く。これは、ある人にとって実践的で得する事は全て「不道徳」であり、逆に、「道徳的」な事は全て非実用的で自滅的であることを意味する。人がある種の利他主義に専念すれば、その人は不道徳的且つ実践的か、または、道徳的且つ非実践的であり、道徳的且つ実践的にはなりえず、自尊心と誠実さが天秤にかけられることになる。
人を道徳と実践に二分するこの人為的分裂は、人を葛藤へと仕向ける。(自分を犠牲にして)自分を生きるに値する者としようとすれば、生きていけなくなるし、(自分の持つ価値を保持、活用して)自分を生存させようとすれば、自分が生きるに値しない者になってしまう。このような規律を完全に守ることは誰にもできない。できたとすれば、死ぬしかない。利他主義を基本とした括弧付きの「道徳」を受け入れた者にとって、この信仰から身を守る手段は偽善しかない。口先では言うが、面目を保つために、宗教的または社会的に必要とされる程度までしか実践しない。これが我々の文明にある大抵の偽善の原因である。利他主義で生きるには偽善が必要となるのである。
偽善がはびこれば社会は火葬場へと向かう。道徳と実践の分断は偽善を必要とさせるばかりでなく、悪にあらゆる好都合を与える。なぜなら、善が善である以上、地球上の生物にとって善が頼りないほど実践的でなくなってしまうからである。悪と実践性が同一だとすれば、悪は常に必ず勝利する。利他主義者の哲学によれば、悪はあらゆる手段を保持し、人又は社会の前進は殆ど期待できないという。
無論、道徳と実践に分裂のある人々は自分が実は何を信じているのか自覚することは殆どない。清き正しい事は、少なくとも視野を広げて見ると、なぜか上手く行かない位は分かるが、レッセフェール社会の無干渉の社会の考え方は、余りにも非現実的に見えて、興味が沸かない。
とにかく、利他主義の括弧付き「道徳」は人間の本性の実態とは正反対なのである。実際には、人の利己に適った思考や行為のみが理性的で、理性的に振る舞っている人々の間には利害の衝突は絶対に起こらない。犠牲は、犠牲を負った者が損するばかりでなく、預かった者も損をし、従って、必然的に有害なのである。理性的利己で行動することは常に正しいので、道徳性と実践性は単純に表裏一体である。道徳的な行為は自明的に実践的で生を育むため、非道徳的な行為は常に非実践的で生を害する。悪、即ち、生に害な振る舞いは、その性質により、脆弱であり、善良な人が騙されて保護しない限り存続し得ない。従って、レッセフェール社会は実践的且つ達成可能ということを意味する。
レッセフェール社会が達成可能なら、なぜ人々は今まで築き上げてこなかったのだろうか。答えは、善良な人々が、本質的に、奴隷制を無自覚で擁護することによりそれを阻止してきたからである。人が他人を強要的に支配することは適当且つ必要とする考え方は、歴史を通して大多数の人々が受け入れてきた。その殆どは悪人でもなければ、権力に陶酔する者も恐らく多数派では無かったかもしれない。ただ、奴隷と暴力を制度化する社会システムに賛成する酷く間違った考え方は保持し続けて来た。幾人かの者が他の者を強要的に統治することは、政府という概念であるが、これが適切若しくは必要だという考え方、正にこの考え方こそが、レッセフェール社会の構築を阻害し、政治的、或いは、宗教的迫害、税制、規制、徴兵、奴隷、戦争、専制政治、等々の形で、計り知れない人の苦痛と無駄の原因を作って来たのだ。レッセフェール社会に到達するには、その考え方を見直す人達が充分に増えさえすればいいのである。悪を倒すのに必要なことは、善良な者たちが自覚しないで賛同するのを止めることだけなのである。
我々の世界には、自由になりたい人々と、支配したい人々(支配してもらいたい人々も加わり)の間に拡大し続ける偉大な闘争がある。この偉大な闘争は数百年も続いているが、大多数の人々はこれが自由か奴隷かという問題なのだということを見抜けず、何の為なのか全く理解していない。人は統治されなければならないと人々が信じてきたため、大抵の人々は無関心ながらも自覚しないで奴隷制側に付いてしまう。極最近まで、自由というものが何を意味し、人の幸福と安寧にとってどんなに貴重なものなのかということに気付く者は、ほんの一握りの極僅かに限られていた。
自由と奴隷の間の偉大な闘争は、形態として様々あるが、大抵、対峙し合う二つの強力な人為制度である、自由市場と政府の間で起こる。レッセフェール社会の構築はこの二つの制度間の闘争の結果にかかっている。ただし、この闘争の最大の決戦の舞台は思想である。