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第I部、大いなる闘争

第3章、 自己制御する市場

政府官僚やその仲間達が時の世論を動かすため、自由市場の性質について偽りの情報が流されるのが世の常となってしまった。不安定さと経済的な不公平さを市場のせいにするため、市場は、貧困から「裕福層」まで無数の悪の根源であるかのように紹介される。官僚らの動機は明白であり、自由で規制のないレッセフェール体制の市場が性質上不具合なものと人々に信じ込ませる事ができると分かれば、学校や編集部の仲間にその話を持ち込むことができるようになる。こうして権力も影響力も官僚に集中し、官僚は権力でのさばれる。

官僚や政治家が殆ど全ての事に関して大げさに責め立てる、その自由市場体制とは、特に何の変哲もない単なる人の集まりのことであり、政治が影響することのない市場で取引を行うということに他ならない。労働分野での取引収益は莫大であるため、市場は常に存在する。市場とは随意による経済的交換網のことであり、強要を誰一人受ける事なく自らの意志で行う全ての交換がそこに含まれる。(もしAがBを雇ってCを殺したならこれは市場現象ではない。先制的な強制力がCに行使されたからである。強制力は価値を破壊し取引を乱すので、平穏で自由な環境にしか市場は存在しえないのだ。強制力があれば市場は壊される。先制的強制力は市場破壊である故、市場の一部にさえなり得ない。)

取引は人の幸福度増大に欠かせない手段である。もし取引がなかったとしたなら、一人一人が自分で物を見つけ自分で加工するだけで暮して行かなければならなくなる。言うまでもなく、取引がなければ世界中の人々の殆どが餓死し、生き残った者は途方もない貧困で暮らすことになる。取引が人間らしい暮らしを可能にする。

二人が取引を行う時、それぞれがそれで得すると見込んでいる。(そうでなければ取引は行われない。)そして、それぞれが取引物を正確に価値判断できたなら、実際に双方共得をする。これが可能なのは、それぞれの人が異なる基準系を持っているからで、価値の物差しが異なるからである。例えば、あなたが一つの豆缶を30円で買ったとする。あなたにとっては30円より豆缶一個の方が価値がある。だからあなたはそうした。(もしそうでないならその買い物はしない。)だが60個も豆缶を持つ食料品店にとっては、30円の方が豆缶一個より値打ちがある。したがって、あなたも食料品店も、各々別々の基準系に従うことで、この取引から益を得る。一般に、取引する人が取引物を正確に見積もり、且つ、その価値判断を基に外部干渉なしに自由に取引したなら、買い手も売り手も必ず益を得る。

それ故もちろん、ヤクザや政治家など外部による何らかの影響で商売が禁止されたり、買い手か売り手には受け入れられない仕方で取引が強いられれば、買い手か売り手(または両方)が損をする。価格や商品の質や(アメリカの酒法など)買える時や場所、(越州商法、関税、貿易規制など)越境輸送、またはその他の取引に関する事について法が何かしら設定されれば、いつでもこうなる。完全に満足の行く取引は、自由意志の取引のときにしか起こらない。

お金を使うのは、取引を簡略化し取引の種類と数を増やせるからである。あなたがバイクを手放してその代わりに6箇月分の食料、3足のズボン、レコード数枚と、彼女と街で一晩夜遊びする分の費用が欲しいとした場合、通貨の交換媒体なしで取引するのはかなり難しいと気がつく筈だ。お金を使用することで、買いたい人には誰にでもバイクを売却でき、そのお金で何でも購入できる。お金の使用によって、様々な売り手が欲する品のために買い手が様々な品物を持ち歩く必要がなくなり、より多くのより良質な取引が可能となる。そして、ひいては、全ての人の満足度の増大につながる。

また、お金は様々な品やサービスの相対的な値打ちを計算する手段にもなる。お金がないと、一台の車は蓄音機何台分の価値があるのか、とか、抜歯は食パン何斤分でやってもらえるのか、とか知りようがない。計算に用いる標準的な交換媒体がなければ、市場は存在しえない。

随意的取引関係が(禁止、規制、税、助成などで)干渉されなければ、市場は自由である。政府は常に市場に干渉してきたし、その存続のため、税や免許などの干渉に正に依存してきたのであるから、大規模で発達した完全に自由な市場が現れたためしは未だに一度としてない。

アメリカ合衆国は、理論上自由の国であるが、殆ど信じ難い規模の市場規制に苦しめられている99ハロルド・フレミング著「Ten Thousand Commandments」(ニューヨーク、プレテンス・ホール社出版、1951年)参照。。資本主義国家とよく呼ばれるが、アメリカには実は、政府が許容するある程度の括弧付きの「自由」と多少の社会主義と大量のファシズム経済が混在している。社会主義は(「国民の福祉」のためということになっているが、実際には、政治家の福祉のため、である)政府が生産手段を所有、運営する社会システムである。ファシズムは、生産手段は名目上私営であるが、政府が法規制で管理運営し、重税でその利益の殆どを刈り取る社会システムである。結局のところ、ファシズムの方が社会主義より巧妙に政府所有をしているということに過ぎない。ファシズム下では、生産者は所有者の肩書きが許され、研究開発のリスクはすべて負うが、実際の運営は殆ど政府が行い、利益も政府が大部分取り去ってしまう(その上政府はリスクを全く背負わない)。アメリカは自由市場経済から益々離れ、ファシズムの全体主義に移行しつつある。

市場には外的な制御が必要で、搾取から弱者を守るため政府が制限を設けなければならない、と、特に現『体制』に賛成する人々の間でよく信じ込まれ、教え込まれている。また、景気不景気など市場の不安定さを抑制するため政府による「微調整」が必要であるとも主張される。殆ど全ての行政執行は、規制がないと市場は忽ち頓挫し金融恐慌や経済混乱が起こる、という理論に基づいている。

政治家や所謂経済評論家が「市場を規制する」と言えば、それは実の所、人を規制して、本来の取引を阻止、または、本来行われない取引を無理やり取引させる法案を提唱しているのである。市場とは取引関係網であり、関係を規制するには関係する人間を規制するしかない。

市場の政府規制の例として「価格制御」がある。価格とは、売り手が合意して受け取り、物資やサービスの代わりに買い手が合意して差し出す、お金の量(若しくは他の価値)のことである。価格は意識を持った生き物ではないので、どのように設定されようが、どんな制御に晒されようが、気にするわけがない。気にするのは買い手と売り手である。価格が人為的に設定されるならば、制御されなければならないのはこの人たちなのである。価格制御とは、立法の力による市場への他の様々な政治的規制や統制同様、人の制御なのである!

もちろん、そのような人間への規制は脅迫や物理的強制力がなければ始めから成り立たない。政府の設計者が指令した通りに人々がもし自ら進んで取引したとすれば、人はもう既にそうしていたのであって、設計者側の市場介入『サービス』など初めから必要のないことである。政府が経済に規制や「微調整」を与えられるのは、買い手や売り手が自由な時と異なった行為を強制力のためやむを得ず採らなければならなくなる場合に限ってである。

こうした先制的な強制力を平和的に売買する人々へ行使すれば、この人達は自分達の最大利益に従う行動、或いは、少なくとも自分達がそう信じる行動、に背く行動を必然的にとらなければならなくなる。最大利益に従わない行為をすれば、必然と価値の損失を被る。「どう営むべきか」を官僚は我々庶民よりはるかによくわきまえているので、たとえもし一部の人々が利己と異なる行為を強いられたとしても、世間全体として見れば実は割に合っている、と考える人がよくいる。しかし、この「賢明な政府の設計者」の考え方は二つの重要な事実を見落としている。第一に、仕事も含め自分の事は、政権が選んだ遠くの官僚より本人の方がよほど良くわきまえている立場にある、ということである。この事は市場で温厚に真面目に営んでいる人全てに当てはまる。そして市場取引が複雑になり重要性が増すほどより一層よく言える。人は市場取引で間違いを犯すかも知れないが、官僚はその人の状況について直接的な情報を持ち合わせていないし、その人への特に強い個人的関心を持っているわけでもないので、たとえ官僚が心から援助したいと思っていたとしても、官僚の方が遥に大きな間違いをより多く犯すことはどう見ても確実なのである。その上、官僚が取引介入で間違いを犯しても、官僚は間違いに応じた経済的報いを何も受けないで済み、間違いから何も学ばない。市場現場の本人は体験でいろいろ学べるが、規制する立場にないため、官僚の間違いについては是正しようがない。

「賢明な政府の設計者」の考え方が見落とす二つ目の重要な事実は、政府規制で利己に反する行為をやむを得ずしなければならなくなった人々は、実は、政府の制御で恩恵を受けるとされる正にその世間の一部である、ということである。つまり、制御されて被った人々の損失は「その世間」の損失でもあるということである。しかも、市場は非常に複雑に絡み合った関係網から成るので、任意の人の市場取引の損失はその人と取引する人々にも響き渡り、更に、その人達の事業請負関係者にも響いてくるため、その関係者もまた云々、と響き渡って行くことになる。

例えば、仮に、きちんと洗濯しない洗濯機械から消費者を守るためとして、全てのコインランドリーの洗濯機は最低でも45分間稼働しなければならない、という法案を政府が可決させたとしてみよう。コインランドリーの経営者にとっては、洗濯機一台あたりの客の回転が鈍るため、利益は以前より低下することになる。すると経営者は洗濯機や乾燥機の新規購入を控えるようになる。するとそうした製品の製造業者は痛手を被るので、製造業者は鋼鉄や磁器類を買い控えるため、今度は云々、となっていく。元の45分間規制と、経営者が買い換えを控えることによる洗濯機数の減少で、洗濯機の稼働時間数が需要に対して不足し、結局はコインランドリーのお客が困ることになる。(この時点でこのコインランドリー産業の危機打開を、官僚は『規制が緩すぎる市場』のためであるとして、連邦政府に必ずや圧力がかかってくる!)

こうして、売り手や買い手として最も利益の上がる方法で自然に売買していた人々は(ここでは自由競争市場を扱っている)、政府の市場規制により異なった行動を余儀なくされ、この結果損失が生まれる。政府規制に賛成の者でも普通、規制を受けた者たちにいくらかの損失が及ぶことは認めるものの、その損失は、池に広がる波紋のように、経済全体に必然的に波及して行く事実を考慮するようなことはしない。また、政府制御の次の直接的または間接的被害者に誰もがなりえるため、政府規制のある社会では全ての人が危険性を負うことになる。だが、規制賛成派はこのことを認識するようなこともない。

市場への政府の規制は先制強制力を伴い多岐に渡って損害をもたらす原因であるにもかかわらず、多くの人々は、それでも、市場は無秩序であるように見え、秩序を保つ強制力が必要であると感じる。この信仰は市場がどのように機能するのかについて完全に誤った理解の仕方をしていることに起因している。市場は歪んだ無関係な事象の溜まり場ではない。そうではなく、市場は非常に複雑で整然とした効率的な機構であり、人それぞれの能力と資源に相応の価値と満足を最大限与える場なのである。この点については、市場の仕組みを簡単に調べてみることで明かになる。(完全な証明は数百ページに及ぶ経済解析を要する1010最も優れた経済原論の専門書として、マレー・N・ロスバード著「Man, Economy, and State with Power and Market」第二版(D・バン・ノストランド社出版)を参照されたし。。)

市場の全ての商品価格は(医者にかかる費用や負債の利子の歩合等も含めて)その需要に対する相対的供給量によって決定される1111価格は生産費で設定されるとする考えには誤りがある。実際には、市場全体としてみれば、種々の生産価格はそれそれの製品で得られる見込み報酬によって決定される。この点についての包括的な解析はロスバード博士著の「Man, Economy, and State with Power and Market」を参照されたし。。資源の利用が限界を越えない内は、供給は需要に制御される。なぜなら、消費者がある商品をより高値で欲しいと思えば、その需要は増え、生産者は利潤拡大を狙うため、その商品の増産を行うからである。従って、自由市場で指揮権を握るのは実は消費者の需要なのである。

消費者需要は各々の消費者が下す経済的な価値判断の集積結果である。従って、一人一人の価値判断こそが、様々な商品の需要に反映されることを通して、市場がある時ある状態へと移行する原因なのである。

市場にある全ての商品価格は、需要と供給がその商品に付ける値段の重なる箇所に設定される傾向がある。もし価格がその平衡値より下がれば、買い気のある買い手が高値を付けてくるし、価格が平衡値より上なら、平衡するまで売り手が安値を付けてくる。平衡価格では、売買したい人々は双方共、過剰供給や供給不足を起こさず売買できるようになる。だがもし政府の価格制御で価格が人為的に下げられたなら、買い手は以前より多く集まって来るが、売り手は売り気を失い、供給不足、配給者の人員不足、行列、闇市が生じてくる。逆にもし政府が平衡値より価格を釣り上げたなら、その商品の過剰供給が起きて、在庫を売ることができない人々は財政難に陥ってしまう。この特別な例が労働市場でよく起きる。政府(または政治特権を持つ労働組合)が最低賃金を平衡値より無理やり釣り上げれば、労働が過剰供給となり、雇用問題が起き、貧困が増えてしまう(失業と貧困を政府が生み出す理由はこれ以外ありえない)。

したがって、市場には自己制御の仕組みが内在し、(商品の質と量も含めた)商品価格を利用可能な資源の供給と消費者の需要に合わせながら、この仕組みが弛み無く調整しているのである。これは複雑な信号計器系のように動作し、誰にでも明確であり、干渉が加わらなければ極めて頼り甲斐のある機構なのである。消費者の価値判断が下す選択が信号の合図となり、送られた合図は、売り手(企業家や事業家)が利益や損失の形で受け止める。利益は企業家に、消費者は当商品に満足しており、生産継続もしくは増産をやるべき、という合図を送る。損失は企業家に、その値段でその商品を買いたいと思う消費者はあまりいないので、価格を下げるか、お金と努力を他の生産に回すべき、と合図する。

この信号体系は、たとえ新しいデータが入ってきて今までの平衡が崩されたとしても、市場を常に平衡状態へ動かし続ける。例えば、イースターン・エレクトリック社が三次元画像が映る新開発のテレビを生産し始めたと仮定してみよう。消費者が新製品の3Dテレビを(ニュースや広告で)耳にするにつれ、需要はうなぎ登りとなる。イースターン・エレクトリック社が生産する3Dテレビの台数は限られているので、大きな需要と小さな供給で価格は高騰し、イースターン・エレクトリック社には大きな利ざやが入る。しかし、当初は市場の不安定と不公平のように見えるこの大きな利ざやは、市場を平衡状態へと動かす信号の働きをする。イースターン・エレクトリック社の大きな利ざやに他社も目を付け、3Dテレビの研究開発により、より良質な型式の新商品でこの分野に参入し、分け前にあずかろうとする。しばらくするうち、幾社もが3Dテレビを競争販売するようになり、供給増加が需要を満足させるので、価格は低下してくる。終いには、大きな利ざやは消え去り、3Dテレビ産業の利益率も他の産業と同程度にまで収まってくる。この時点で、この市場の魅力が失われ、企業の新規参入が止む。市場全体が沈静化し、新データは入力されず、安定が保たれる。よって、市場に妨害がなければ、全ての新データの入力は即座に損益の信号を放ち、信号が次に取るべき行動を合図するため、市場が平衡状態を維持する。即ち、市場は自己制御機構なのである。(新製品で実現した当初の大きな利ざやは正当な経過であることにも注意して欲しい。これによって開発者の時間や金、思考作業の努力が報われているのである。)

個人の利己が市場全体を成す基本であるからこそ、市場が大変上手く機能する。消費者が利己に従えば、見渡せる範囲内で一番良質の品を一番安い価格で購入する。生産者が利己に従えば、利潤を最大限拡張させようとする。消費者も生産者も市場取引で利益を得ようとする。もし、どちらか一方が何かを得るつもりがないなら、取引ははじめから行われない。この二重の利得動機による重複作用が消費者に最大幸福をもたらし、事業効率に報いを与える。

政府は主に三つの方法で経済に影響を与えている。1)税収と歳出、2)規制、3)金融と銀行の制御。税金は経済の血友病である。つまり税金は経済から資本を奪い去る。税金でなかったなら、その資金は本来、消費者の幸福度拡大と生産向上に使用され、従って、生活水準向上のためになっていた。税でお金を取り去れば、生活水準を普通に向上させて行くことが阻害され、時には、下落さえさせる。生産的な人だけがお金を稼ぐので、政府がお金を取り去ることが出来るのも生産的な人達からだけである。税は必然的に常に生産性を不当扱いする。

「民間部門」から取ったお金は「公共部門」で消費され、結局皆が平等に潤うのだから、税はそんなに悪いものではない、と一部の人は感じる。だが、政府が税収を費やしても、合法的略奪で得た富の費やし方は、納税被害者である元の正当な所有主が費やす仕方と常に異なる。お客へのより一層の満足度や生産への再投資にそのお金が使用されていれば、雇用が増え、消費者により一層の商品提供ができていたはずである。そうではなしに、そのお金は例えば、生活保護者へ渡り、その人の生活の営みを制御し、結局は、その生活から逃れられる唯一の手段である生産的な労働をその人が怠ることを助長してしまっている。或いはそのお金はダム建設に使われるかもしれない。ダムは消費者や投資家には殆ど全く価値がないので、政府介入の強制力なしには、絶対に建設されない。政府歳出は、もし自由であったなら人々が自らの最大幸福のために使っていたはずの支出を別の支出にすり替えてしまうのである。こうして政府歳出は市場を歪め、税以上に経済を痛めつける。

税が経済の出血で、政府支出が経済の歪曲なら、政府規制は経済の絞頸である。もし規制が消費者が望んでいることで事業者もそれに応じていずれにせよ実行していた事柄であったなら、規制は初めから必要ない。もし規制が消費者の望みに背く行為を事業者に強制的に取らせる内容なら(殆どいつもそう)、事業が傷つき、客を怒らせ、経済が弱まり、分けを知らない消費者はプロパガンダに乗せられ、通常、事業者を責める。政府規制は、消費者が望むのに反する行為を事業者に無理強いすることで、規制を受けた商品(今の経済では殆ど何もかも)の価格上昇を招き、従って、皆の生活水準を低下させ、貧困を増大させる。

政府規制は、価格上昇で貧乏人を間接的に痛めつけるだけでなく、貧乏から這い上がる機会を奪うことで直接的にも痛打を与える。例えば、真っ当な職に就けない黒人男性が家族を養うためサンドイッチを作って地元の工事現場の職人さんへ販売することにした、としてみよう。彼は、まず初めに、必要とされる免許や認可証全て欠かさず政府の省庁や部局に出向いて正式な用語としきたりで申請しなければならない。多分、彼は、市と州両方から販売許可の免許を取らなければならない。その上、食品衛生法1212【訳注】分かりやすい、今の日本で適用されるであろう法名を用いた。原文は「pure food and drug laws」(純食品と薬の法)。に基づき定期的に検査と認定を受けなければならない。破産もせず、絶望もせず、これらすべてを言う通りに従い乗り切ったとしても、今度は、販売記録を全て保存しておかなければならないという問題に突き当たる。彼の儲けに応じたピンハネを、「みかじめ料」として、市、州、国からの税務官がきっちりと徴収できるようにするためだ。これには帳簿の記帳の仕方をよく知っておかなければいけないが、おそらく彼にはそのような知識はない。そこで例えば、記帳に少し詳しい妻の弟を雇って記帳してもらうことにしたとする。すると今度は、雇用者をいじめる別の法律、所得税、彼の従業員の稼ぎから引かれる健康保険税、売上税、最低賃金法、労働基準法、に従わなくてはならなくなる。成功へのこんなにも過酷な障壁があるのだから、道理で貧乏人はより貧乏になるわけだ!

政府規制は、個人が一人で事業に取り組もうとするのを阻止させるばかりでなく、多くの被雇用者を不必要に定時八時間労働の型にはめ込んでしまう。我々の世界では、自動化のお陰で、ある一定の時間に会社にいなければならない必要性がなくなり、時間や場所にこだわらず、ある特定の仕事量をこなすことだけが要求される職が多く存在し増加しつつある。この種の職に就く従業員は、たとえ自分の家の台所で午前二時から三時まで一日一時間働こうとも、自分の仕事を済ませさえすれば、務める会社から文句を言われない。にもかかわらず、雇用者は政府の法規制のファシズムに捉えられて、益々頑なに八時間労働で従業員を働かせようとする。これでたとえ従業員がこのうち五時間は机の前に座って何もせず忙しそうな素振りをしているだけということになったとしても、雇用者は動じもしない。政府規制がなければ、企業内の革新がより簡単に行われるため、自由が生み出す経済の高揚のお陰で、企業は雇用獲得にもより真剣に取り組まなければならなくなる。被雇用者にとってはこれはもっとずっと柔軟な労働条件で働けることを意味する。

経済的自由は大事業ばかりでなく、街の普通の人にも、貧乏人にも、学生にも、同様に大切である。特定集団を守る目的の規制介入は、長い目で見れば、通常、全ての人に害を及ぼす。

以上に加え、金融行政が起こす災難、例えば、必然的に起こるインフレ、恐慌、国際収支問題、金の流出、裏付けのない通貨、最終的な金融崩壊、と見てみると、驚くべきほど生産的で効率的な機構を持つ市場に手を出す政府のお節介が、どれ程破壊的なものなのか、そしてまた、市場が自由だったなら、どれ程生活水準が高くなっていたであろうか、と感慨させられる。貧困は政府が経済にする干渉が及ぼした結果であることを見ると、政府の貧困対策など笑止千万である。

政府のするどのような市場への干渉も、たとえ干渉がどんなに良心的であろうと、市場を歪め、重要な信号が誤った合図を出し、誤った合図が更に市場を歪め、市場が安定に向かうのを妨げてしまう。政府官僚がやる経済の「微調整」は、自動化されたエレクトロニクス工場で狂人供が鉄のレバーを動かし組み立て装置の動きを「調整」している様子が似つかわしい。

規制を受けていない市場は失業者を生むとよく責められ、産業革命時のイギリスの貧困層が実例に引用される。しかし、そうした評論家は、産業革命以前、乳児死亡率がほぼ75%にまで登り、飢饉が定期的に国を襲って『余剰人口』が切り捨てられており、貧困は遥に酷かったことについて指摘しない1313アイン・ランド著「Capitalism:The Unknown Ideal」(ニューヨーク、ザ・ニュー・アメリカン・ライブラリー社出版より)の第八章、ロバート・ヘッセンより「The Effects of the Industrial Revolution of Women and Children【産業革命の女性と子供への影響】」を参照されたし。

自由市場が完全に産業化されて成熟するに連れ、(資本財、即ち、生産のための道具、への投資により)労働者の生産性が増大し、労働者の収入が増す。これは、繁栄の唯一の源が価値の生産であるからである。生産は道具に依存する。即ち、労働者の道具がより良くより多い程、労働者の生産能力は向上する。生産と利潤を拡大させるため、産業は労働者の使用する道具(機材)を絶え間なく改良する。産業が労働力の取り合いをすることで、労働者の給与は上昇する。自由市場では、給与が上昇するのは、経営者が道具への投資を増加させることで、労働者の生産性が増大するからである。給与は常に市場価格(雇用者が払える最大値)にまで上昇するので、強力な労働組合や大きな犠牲が伴うストライキは必要なくなる。

政府規制のない市場の中では、給与の上昇に伴い、働きたい人には全て雇用があるところにまで、失業率は下がる。人々が求める商品の需要と比較しても、その需要に必要な天然資源と比較しても、労働力はいつも不足気味である。人口が過剰となり、労働力供給が素材の供給を上回り、大量飢餓が起こるところにまで行かない限り、労働力は常に不足する。これは即ち、(深刻な人口過剰を除いて)発達した自由市場では職は常に充分に存在することを意味する1414人口過剰は理論的にはありえるが、一般に考えられているような近未来の脅威ではない。ロバート・ヘンレン氏の科学小説「The Moon is a Harsh Mistress【月は厳しい女主人】」が指摘するように、地球は人口過剰なのではなく、政治家の手によって酷く誤った管理下にあるに過ぎない。

発達した産業社会で失業問題が起こるのは、寄生する政府が社会を衰弱させ、社会が経済的な病にかかるからである。失業問題の主な原因は、政府が経済へ行う干渉、特に、最低賃金の設定にある。政府の行動の全てがお金を市場から吸い上げるため、その分だけ被雇用者数と労働者の給与が減少する。政府は、市場を傷つけ雇用問題を自ら生み出しておきながら、労働者の味方として振る舞い、(立法で法律としたり、格別な扱いを労働組合に施したりして)最低賃金を設け、労働者を『救済』する。だが、事業者の給与に投与できる資金には限界があるため、市場価格を越えて給与を人為的に釣り上げれば、その分だけ生産性の最も低い労働者を解雇せざるを得なくなる。これが無職貧困層を生み出し、政府の福祉事業が貧困を賄うようになる。その上、商品の生産量も減るため価格は上昇する。従って社会全員の生活水準が低下する。

政府が犯人と認識されず、その代わりしょっちゅう自動化がそのせいにされる。しかし、自動化には就ける職の数を削減したりはできない。なぜなら人々の経済的な欲求に上限はないからである。機械が人の欲求をいくら満たしたとしても、満たされない新たな欲求はまだ無数に存在する。自動化は、職の数を減らすのではなく、例えば、自動化が行われている産業から自動化させる機械の製造業に労働力の需要が移って行くように、ただ単に、労働力の需要のあり方を並べ替えることしかしない。もし自動化がその反対派が断言するような脅威であったなら、パワーショベルを全部ぶち壊してスコップ、いや、スプーンに置き換え、「完全雇用」が保証されるようにした方が賢明であるということになる!

惨めに暮らす『裕福層』も規制を受けない市場のせいにされる。貧困と失業は政府介入の産物であるが、裕福さは確かに自由市場のせいである。市場が生み出す贅沢や便利さを嫌だと思う人は、朝から晩まで原始的な道具で重労働し、地べたに寝て高死亡率に苦しむ生活を、より賢明な人にそのしきたりを強要しない範囲内で、存分に楽しんで貰いたい。

政府が経済へ介入する事について、官僚の口から出る言い訳は、もし市場が放っておかれたなら、インフレと不況、即ち、好景気と不景気が代わる代わるやってくるからだ、である。ところで、「景気の波」の脅威を引き起こす原因は一体だろう。この不安定性は市場固有の性質のものなのだろうか、それとも、何か外的要因があるのだろうか?

誰かが小さな町で偽札を大量に使用して完全犯罪に成功したと仮定する。新しい『お金』の流入で人工的な繁栄、即ち、好況、が生まれる。町の人は、お金を沢山手にして、新しい投機的事業に投資するが、景気が上がると同時に、町の経済が新規事業を支えきれないことが明るみになる。新事業は潰れ、投資家は失敗し、失業率が急上昇し、不況が到来する。

景気の波では、政府の役割は、町に偽札をばらまいた犯人と何も変わらない。お金の代替品(紙幣や安い金属素材でできた硬貨)が経済に汲み出されるおかげで、通貨膨張がおこり、景気の波が始まる。そのお金の代替品は、本物の金銭的な価値(金や銀など)で裏付けられていないので、実際には何の代替でもない。お金の代替品は価値がないか、無いに等しい。 通貨を発行するのは政府であり、お金の代替品の供給で通貨膨張を図るのも政府である1515例えば、当座預金でローンを組ませるなどして、銀行も預金に対して部分準備高しか保持しないことで通貨膨張させることができる。しかし、銀行が特別な法律で守られていなければ、部分準備はリスクが高過ぎるため、ボロ儲けするのは不可能である。完全に自由な市場では、100%準備高がない銀行は、財政的により賢明で健全な競争相手に排除される。。政府によって膨張された通貨は人為的好況を生むため、市場の信号体系に誤った合図を送る。企業家は繁栄していると勘違いして、誤った投資や過剰投資をする。誤った投資の質と規模が見えてくると、好況が崩れる。後からやって来る不況は、実は、通貨膨張が原因の誤った投資から、市場が回復を図る唯一の方法なのである1616景気の波の不景気が始まる時期は通貨膨張の継続で長期に渡って延期させることができるが、そのような政策は必ずや襲ってくる不景気を更に壊滅的なものにするだけである。。従って、よくレッセフェール資本主義のせいにされる景気の波とは、実は、政府の介入という剣が、市場の肝心要の自由取引に致命的な一突きをしている、なんと、その剣に相当するのである1717マレー・N・ロスバード著「Depressions: Their Cause and Cure【不況:原因と治療】」(ミシガン州ランシング市コンスティテューショナル・アライアンス社出版)のミニ本を参照されたし。

自由市場は完璧に自己制御しているという真実と、政府の介入は市場の不安定性の原因であって治療ではないという真実があるにもかかわらず、多くの人々は完全に規制のない市場にそれでも恐怖感を抱く。そうした人々は、自由市場は強力な利益集団が経済的弱者を搾取するのを助長すると言い張り、人は暴力や詐欺から自由なだけでは不十分で、「財閥」の独占やカルテル(カルテルは実は試行的独占である。)、お金持ち一般の勝手気ままな略奪からも守られなければならない、と感じている。経済上のこうした『お化け』には皆類似点があり、一番極端な形態である独占について吟味することで、全ての『お化け』は退治できる。

市場の自由の擁護論に対して多くの人の心に浮かぶのが、野放しにされた独占が暴れ回って、『か弱い人々』の権利を踏みにじり、競争になりそうな相手は情け容赦なく潰されてしまう、というような恐怖である。政府の厳しい規制が無ければ、そのような独占がはびこり、社会経済が事実上の奴隷制となる、と広く一般に信じられている。

理論的には、独占には二種類ある。市場の独占と、強要的な独占である。強要的な独占は、自らの独占を維持するため、強制力又はこれを背景にした威嚇を先制的に行使して、競争を阻止し、時には客に忠誠を強要する。市場の独占の場合、その分野には競争が実効的に存在しないが、独占が物理的強制力を行使して競争を阻止することはできない。市場の独占は先制的な強制力を客や競争相手や従業員に行使しても達成は無理なのだ。 なぜなら、人がその独占とどうしても付き合わなければならないという法もなければ、独占保護のため強要的な行為をしてもその独占は罰を受けないで済むというような法的効力もないからである。先制的な強制力を働かせれば、取引先は恐れて逃げ去るし、客なら驚いて他の代替商品を探し出すか買い控えするし、企業家なら競合する事業を起こして不満のある客を引こうとする。従って、市場の独占の先制的な強制力は、その目的を達成するのに役立つどころか、自ら煙滅への近道を切り開くことになる。

市場の独占は先制的な強制力を行使しないので、顧客に満足してもらうことに優れ有効的に商品を販売する(これには効率的な経営法が必要)ことでしかこの地位は得られない。更に、一旦その地位を達成したとしても、その優れた商品を安価な値段で提供し続けるしか維持する方法はない。(経済が自由であればあるほど、強調して言えることである。)もし独占をしている経営者が不手際に市場価格を上回る値段で販売したなら、他の企業家にとっては、それより安値に販売するだけで膨大な利益を得るチャンスになるため、瞬く間に新規参入企業が登場する。こうなれば潜在していた競争が現実のものとなる18181888年から1940年までアルコア社はアメリカでアルミニウム製造の完全独占の企業だった。アルコア社が独占を継続できた理由は、非常に優れた製品を大変安価に販売して他社が太刀打ちできなかったことにある。独占をしていた期間、アルコア社はアルミニウム1ポンド当たり8ドルから20セント(!)まで値下げし、製品を素材とした利用法を数百も先駆けて考案している。ハロルド・フレミング著の「The Thousand Commandments【千戒】」は、独占が顧客を満足させる絶え間ない努力の成果であることを罪に問い、政府が『容赦無い独占』を罰する様子を描写する。。健全な大企業は、投資資金が豊富な他、新分野への参入で事業を多様化して財政基盤を広げるようと努力するため、このような競争に参入して来る確率が一番高い。自由な社会では、大企業は、官僚が「儲けすぎた」お金だと正当化して重税を課すというような略奪に合わないで済むため、独占企業が市場価格以上に設定したり、サービスの質への心がけを怠れば、競争が自ずと生まれ独占は消滅してしまう。病が癒しを自ら生み出し市場が自己制御を施すのは、邪魔の無い市場における不変のことわりなのである。

市場の独占は誰にも脅威とならないばかりでなく、広く信じられている独占の考え方自体にも誤りがある。ウェブスター辞書によると、独占とは、「ある一定の市場における物資やサービスを排他的に支配する、または、価格を固定し自由競争を事実上排除する排他的支配力を持つ」商売とされる。しかしながら、市場の独占は競争相手の参入を拒められない。なぜなら、競争になりそうな相手を止めることは強要できないからで、 従って、「価格を固定する排他的支配力」を絶対に持ち得ないからである。また、たとえ排他的にある市場を支配している間だったとしても、独占には競争がないとも言えない。なぜなら、独占商品はそれでも他の全ての物資やサービスを競争相手として消費者のお金を獲得する競い合いをしなければならいからである。例えば、キャンピングカーのある製造業者がその市場を完全独占していると仮定してみる。それでもこの独占業者は、モーテル産業、ひいては、娯楽用船舶、プール、卓球用品、等々の製造元と消費者の「娯楽用資金」の取り合いをしなけばならない。競争はこれだけで済むというわけでもない。消費者が娯楽でお金を使うとは限らないので、キャンピングカーの独占業者は、冷蔵庫製造業、衣料品企業、大学、その他諸々無数の相手と競争を間接的にしなければならない。業界が生活と密着し過ぎて、独占で「自由競争を事実上排除する」ことができる業界など一つもない。製鉄業でさえ、建築材料の分野で軽金属、木材、合成樹脂、コンクリート、煉瓦、または、最近新開発のガラス材と競わなければならない。

独占の概念について考えてみるとき、大切なのは企業の絶対的規模ではなく、対応する市場と比較した企業の相対規模であるということをわきまえておくのが便利である。1800年代の田舎の食料雑貨品店は、市場支配という意味において、現在の都会にあるスーパーの最大のチェーン店より遥に占有度は強かった。交通の利便性の発達のお陰で、業界の最大手でさえ相対的な規模は常に縮小し続け、従って、市場の独占的地位を暫定的に築くのでさえ益々難しくなってきている。つまり、自由市場は独占を助長するよりむしろ排除する方向に働くのである1919ベンジャミン・A・ローグ博士のLPレコード9番目のアルバム「Is Economic Freedom Possible?【経済的自由は可能なのか】」(ニューヨーク、ザ・ファンデーション・フォー・エコノミック・エジュケーション出版)より。

市場の独占は、需要と供給の法則に反して自由競争の排除や価格固定をすることが絶対にできないため、恐るべしと大多数の人々が教えられてきた「情け容赦ない身勝手な独占」の概念とは、実は全く似ても似つかない。「市場の独占」という言葉にもし何か意味があとすれば、それは、ある企業がその社の商品を安価な価格でで顧客を充分満足させていて、他社がその分野に参入しても儲からないとして諦め、その企業がその分野で単独の供給元となった、そのような企業としか受け止めようがないのである。いずれは誰かがよりよい商品を思い付き競争することになるであろうから、独占が延々と続くことはない。また、市場の力の前では、競争からも、価格の需要と供給の法則からも逃れられない。

市場の独占は、強制力を先制的に行使できないため、取引する個人にも経済全体にも何の迷惑もかけない、ということは容易に理解できる。では、強要的な独占はどうであろう?

強要的な独占は競争から例外とされ競争が禁止された部門での排他的な支配力があるので、その部門を支配する人々は、市場と無関係に政策を勝手に定め、価格を自由に設定できる。強要的な独占が競争の全てを阻止し、その排他的支配力を維持するためには、強制力を先制的に行使する以外やりようがない。自由市場内では、企業が強制力を先制的に行使すれば、顧客や取引先を失うリスクを伴うため、企業は先制的暴力が振るえない。従って、強要的な独占として商売を維持して行くには、唯一、特権の認可と言う政府介入に頼るしかない。強要的な独占それ自体でもある政府のみが、人がむしろ関わりたくない企業とでも強制的に取引させる能力を持つのである。

情け容赦ない身勝手な独占への恐怖は的を射ているが、それは強要的な独占にしかあてはまらない。強要的な独占は政府の拡張であって自由市場の産物ではない。政府の特権の認可無しには、強要的な独占は存在しようがないのである。

独占、カルテル、「財閥」による経済搾取は、現実には存在しないお化けなのである。政府干渉の無い発展した市場では、そのような搾取によって得た利益は信号の合図となって競争を呼び、搾取は消失してしまう。自由市場では、個人はいつも選択肢を持っており、個人の意志に反した選択を個人にさせることは、物理的強制力でしかできない。しかし、強制力の先制的行使は市場機能ではなく、規制を受けていない市場では、企業政策として採用しても稼ぎを生まない。

実際は自由市場は、詐欺同様、強制力にも罰を与える。企業は顧客に依存しており、強制力による搾取や詐欺があれば顧客は逃げてしまう。強制力や詐欺へ罰を与える仕組みは、自由市場が固有の性質として持つ自己制御機能の一部なのである。

政府が規制で邪魔をしなければ、市場は常に、安定と消費者の最大幸福の状態、即ち、平衡状態、の方向へ移行していく。政府介入は、社会を改善するどころか、障害、歪み、損失しか生まず、社会を混乱へと導く。市場は自己制御し市場が正常に働くのに強制力は要らない。実際、市場が全ての人の最大幸福の方向へ動くのを邪魔するのは先制的な強制力の行使だけなのである。

もし利己に適った非強要的方法で取引する自由がないのなら、人は自由では全くない。人は自由でなければ、多少なりとも奴隷である。市場に自由がないのなら、他の「自由」に意味は無い。それ故、自由と奴隷制との間の戦いの焦点は、自由市場及び唯一その実質的敵対関係にある政府に向けられることになる。