ブログ ミラーサイト
第I部、大いなる闘争

第1章、 行く先を見失えば…

行く先を見失えば、おそらく、目的地には辿り着けない。

世界中どの地域を見渡しても、無数の人々が、自分らの社会のあり方に不満を持ち、これを囁き、叫び、著し、騒動を起こし、世界は益々かき乱されている。間抜け官僚が行う貧困抑制のための行政で公共費が拡大、このために増税が行われ、法がまた増え、その結果また貧困が悪化する。或いはまた、無意味な数々の小戦争による長い煩悶の後の死、問答無用でやって来る残忍な秘密警察…、こうした不満は著しい。

若者の不満は特に著しい。若者の多くは、より自由でより人道的な、より良い社会を望んで下克上に憧れる。だが、人の生活が改善されるのは、知識と知恵の産物であり、憧れや敬虔な祈り、運などによるものでは決してない。不満のある者は、人とはどういう生き物なのか、人が最も幸せだと感じ、最も効率的に機能するにはどのような社会が必要なのか、ということを見出さねばならない。これを考える責務を怠れば、社会を変えてもまた新たな恐らく今以上の問題を抱えた社会になるだけなのだ。

社会の病の原因の多くが政府のやることにあるのでは、と感付く人が増えきた。生産性のある住民は、己れ達自身が民族繁栄の基礎であるにもかかわらず、如何に取引すべきか、如何に生きるべきか、更に細かいことにまでもいちいち指図を受けることに嫌気をさす。若者らはというと、殺人の仕事に呼び出され無理やり雇われる奉仕義務に嫌気をさす。貧しい人々は、政府が華々しい公約や高価な行政をやっても、経済が赤字を増やすだけで、自分たちは見窄らしいままであることに失望する。加速する増税とインフレの悪循環で誰もが損をする。

ほぼ全ての人が政府の何らかの行為に反対する。政府の規模は大かれ少なかれ縮小した方がいいと思う人々も増加してきた。政府のある特定の機能でもなく、政府の規模でもなく、政府の存在自体が問題の原因なのだ、と思う人も少々現れてきた。こういった人々は、政府が原因で起こる社会の病を完全に克服するには、政府自体を排除するしかない、と確信する。多種多様な反国家主義の「活動家」の中には、政府の一部の機構またはその全てを倒壊させることに憧れや目論見を抱き、デモや抗議で活動する者も多い。

政府の不正に対抗するこうした反権威主義思想家の姿勢は確かにうなずけるのであるが、具体的に何になら賛成できるのか明確な考えを持つ者はあまりいない。古ぼけた社会を潰してより良い社会を築きたいとは思ってはいるものの、どのような構造をしたどういう社会なら良い社会なのかについては、大抵、矛盾もしくは漠然とした考え方しか持ち合わせていない。

目標がはっきりしないで、達成などまずない。現在の権威主義的な社会システムを潰しても、政府の支配がない社会がうまく成り立つ仕組みについて、合理的な思想を構築し広めなければ、混沌と混乱に終わるだけであって、戸惑い恐れおののいた人々は、政府統治の元の社会システムは、重大な欠陥があるにせよ、必要且つ正しかったのだと確信し、強い統率者を求めるようになる。するとヒトラーのような人が要求に応え現れる。後を振り返ってみたら、生じてきた混乱と人気独裁者にも耐え忍ばなければならず、元よりはるかに暮らし辛くなった、ということになりかねない。

人の生活を形作り社会を構築する力とは、抗議や革命による破壊的な力ではなく、理性的な思考から来る生産的な力である。石器にせよ社会システムにせよ何かが産み出されるにはまず、目的とそのための方法を考え出す誰かが必ずいる。即ち、すべての製作や行為の以前には必ず発想がある。従って、思想は人の世で(最も軽視されることの多い)最も強力な武器なのである。

本書は、人が最も効率的に最も幸せに機能するにはどのような社会が必要なのか、そしてどうしたらそうした社会にたどりつけるのかを見つけ出す、その思想についての本である。本書はまた、自由とは実は何なのか、何を意味するのか、人はどうしてそれを必要とするのか、人に何を与えるのか、真に自由な社会をどうしたら構築し維持できるのかを示す、自由についての本でもある。

人が人に危害を与えるようなことは一切ない理想郷をここで物語るつもりは著者にはない。人は自由に選択できるため、人が人である限り、理性や道徳に反する行為を他人に及ぼしたり、自分の意志を力ずくで他人に強いる野蛮な者も、おそらく必ず現れる。だが、ここで著者が提唱する社会システムには、そのような者に対処するための、現行の政府統治社会より遥に優れた方法が備えられている。そのような社会においては、人の自由を犯すことは遥に難しくなり、且つ、得にもならず、暴漢としてまたは政治家として暮して行くことがまず無理といっても過言ではなくなる。

著者は完璧な社会を提唱するつもりもない(この完璧が何を意味するにせよ)。人は完璧ではないため間違いは付き物であり、完全に公正な社会も絶対にありえない。現在の政府統治社会では、平穏に暮らす一般人の生活への過ちや侵害は得てして政府側に利益をもたらすため、政府が自然と拡大していくようになっている。(税、規制、役所、その他諸々の)不正が始まりがたとえ小規模でも、時を経れば必然的に巨大化していく。一方、真に自由な社会では、過ちや暴力は得てして自己修正的である。個人や企業が愚かに振る舞ったり、攻撃的であったり、危険を及ぼすようであれば、そのような会社や個人と付き合わないようにすることを人が自由に選択できる。

著者が提唱する社会は一つの根本原理を基本とする。その原理とは、個人であろうと団体であろうと、たとえそれが政府と称するものであろうと、物理的強制力、又は、これを用いた威嚇、或いは、それに代わる強制力(詐欺など)を先制的に他人へ与える(先に手を出す)道義的資格は誰にもない、ということである。これは即ち、たとえ社会で最も無駄と認識された人であろうと、その人へ与える強制力がどんなに些細であれ、その人が先制的強制力を11「先制的強制力」や「強要」は物理的強制力(暴力)の意味にとどまらず、暴力を背景にした脅しやそれに代わる効力も含まれる。なぜならこれは、身体への暴力だけでなく、詐欺や窃盗など暴力に代わる方法や脅迫によってでもやはり同様に人から価値を取り去ることができるからである。また威嚇も強要の一つの形態である。ふるわない限り、個人でも、政府でも、ヤクザでも、誰であっても、他人を強要することは道義的に許されない、ということを意味する。先制的な強制力を振るう者は多分必ず現れてくるが、これに対処する正当な手法は本書の主題でもある。そうした手出しが世界から完全に消え去ることは多分絶対にないにせよ、理性的な人間ならば、制度化するようなことをしなくても、これを思い止めさせるような構造を持った社会を築き上げることが可能なのである。

もちろん、真に自由な社会についての我々の知識は完成とは程遠い。しかし、何かを考え何かを作る自由が人に与えられると、人の身の回りの様子はガラッと改善するものである。自由社会もまた同様で、実際に樹立されて機能していくまでには、大まかな概要と構造の格子しか見えてこない。ただし、政府の制度化された方法ではなく、正当な方法で人の先制的強制力を処理する、真に自由な社会が実現可能であることの証明は、十二分な数の人々に納得されるはずである。今までに分かってきた事柄を解析することで、自由社会がどのように機能するのか一般論も示せるようになり、よくある質問や反対意見に対してもきちんと充分に回答することができるようになった。

社会を改善しようとする人々は、政府の規模、そのあり方についての長所、短所を論争しあい、どの程度の自由が人の生活に理想的なのかまたは必要なのか、長く白熱した議論を幾年もかけて行ってきた。ところが、政府の性質や自由の性質、更に、人の性質についても明確に同定しようとする者が殆ど出てこない。その結果、彼らの社会的方策論は現実に則ったものにならず、社会の病を治す解決策も学者様の空論の域から抜け出すことができないでいる。現行政権が掲げる使い古された無駄な「万能薬」にせよ、右翼の熱論する「神と国家」にせよ、左翼の憤慨の平和行進にせよ、よい社会とはどんな社会なのか、人が現実に根ざした矛盾のない明確な考えを持たない限り、よい社会など築けるわけがない。どこに行くのか分からなければ、目的地には到達できない。

我々はどこへ向かっているのか(または、向かうべきなのか)を示すのが本書の目的である。