社会の構造と機能に政府権力は非常に強く関わっているので、社会組織に関する概念はとかく想定された社会にある政府の構造に焦点が向けられる。これ故、大抵の『社会学者』は政府の存在を初めから仮定してしまう。『学者』らは理想的な社会に望ましいとされるある特定の政府のあり方については論争してきたが、政府それ自体の性格について吟味してみようとはこれまで滅多にして来なかった。しかし、政府とは何であるのか明確に分からないままで、政府が社会に及ぼす影響など語れそうにない。
政府とは、自ら所有を主張する地理的領域内にいるすべての人間に対し、権力と責任を保持するとみなしている強要的な独占のことである。強要的な独占とは、他者が競合に参加することを阻止するのを、威嚇或いは物理的強制力、即ち、先制的強制力、によって維持管理する制度である。(強要的な独占は、例えば「用心棒代」のように「顧客の忠誠」を強要する場合にも強制力を行使する。)
政府は、その地理的領域内で政府が代表してできる機能全てについて所有・支配を排他的に行い、他政府及び異議を唱える可能性のある個人双方に対抗するため、法や銃による強制力でその管理を維持する。政府が持つ機能全てが管理されるよう、政府は(定形郵便物の配達のように)競争を禁止したり(アメリカの教育制度のように)限定的な認可制にしたりする。政府は自らのサービスを顧客住民が購入するよう法の力で強要し、購入を拒む場合でもとにかく支払わせる。
どのような政府でもその地理的領域を統治するためには、少なくとも(立法など)何らかの活動の独占を保有しなければならないのは明白であるが、一部の学者は、「適切に制限された」政府は先制的強制力を行使しないため、強要的な独占ではない、という立場を採る。このように想定された政府の場合には、国内外からの攻撃から生命と自由と財産を守ること(軍と警察)や、争いの仲裁(法廷)、正義の執行(法廷と懲罰)など、最小限の政府的本質と提唱者がみなす機能のみに政府は限定される。
こうした制限された政府を提唱する人々のうち幾人かは税が窃盗(他人の正当な保有物を暴力、盗み、騙しによって奪う行為)であることに気が付き、その理論上の政府は如何なる課税も行えないとして、政府が先制的強制力を絶対に行使できないよう試案する。自発的寄与や寄贈で成り立つそのような政府は漠然としていて疑わしいだけでなく、課税を行わないそのような政府がたとえ仮にできたとしても、それでも政府の先制的強制力は排除しきれない。政府が、実際に或いは潜在的に競争がある開かれた市場で事業を行う単なる普通の企業ではなく、政府であるためには、政府が専有する分野で独占を維持しなくてはならない。政府が存在し続けるのを確保するには、競争を防ぐ必要がある。つまり、その独占が強要的でなくてはならない。故に、政府が政府の形態をとり続ける以上、先制的な強制力を行使しなければならない。さもなければ、政府が政府占有とみなす分野で政府に対抗して住民が事業を始めることを妨げることができない。
人と財産の保護・防衛、争いの調停、不正の是正のような「基本的な政府機能」は私的な自由市場の事業で十分満足に賄えると事業家に証明できたのなら(本書はできると証明する)、どのような非強要的な限られた政府の考え方も二者択一の重大な窮地に立たされる。政府が先制的強制力を行使して自由事業家がその「市場」に参入するのを阻むか、それとも自由事業家が政府の「商売」を競争で退け政府が消滅するか、の選択である。後に示す通り、政府は非効率的で必然的に酷い浪費をする。もし政府が(強要的な独占として維持することによって)住民を強要的に扱わなかったとしたなら、真に有意義な効率的サービスをより安価で自由市場が提供するため、政府は「顧客」を全て失ってしまう事になる。
政府とは強要的な独占なのであるが、これは必然的にそうなのである。なぜなら、政府が存在するためには、政府と競合して事業を起こす権利を企業家から剥奪し、政府が専有する分野においては政府とだけ取引するよう全ての住民に強要しなければならないからである。先制的強制力を行使しない政府を試案しても、これは辻褄の合わない無益な作業なのである。政府とは、正にその性格から、先制的な強制力の執行業なのである。もし政府が先制的強制力を働かさなくなったとしたなら、政府が政府でなくなり、単純に、競争市場におかれた普通の企業と同然になってしまう。また、自由市場的に部分営業する政府などもありえない。 なぜなら、自由と暴力との間には妥協点など存在しないからである。組織は、顧客の要望を満たすのにどれだけ優れているかを競う企業なのか、それとも、機会の許す限り力づくで競争を阻止する横暴と暴力で暮らす暴力団か、の何れかしかありえず、両方とはなりえない2020政府と企業を融合させるこの試みの一例としては、善意的な立場で幾人かが提唱している次のようなものがある。それは、市民権を契約事項の範疇に設け、政府サービスを購入したい人達だけがその契約に署名することで、政府が住民に強要することを防ぐことができる、というものである。しかし、そのような政府は、たとえ仮に政府としていられたとしても、先制的な強制力を行使しなけば、競争は排除できない。そうしないとその独占が失われてしまう。結局のところ、その領土にいる人々に、「政府提供の保護を購入する必要はないが、他の誰からも必要な保護を購入することは認められません。」と政府が言っているようなものである。この『自発的』政府による、政府の強要で提供された『自由』には何の意味も無いのである。。
その上、政府は市場の独占ではないので、強要的な独占でしかありえない。第三のあり方は存在しない。
政府の存続がかかっている競争の禁止は自由市場に危害を加える干渉であり、政府の責任で起こす市場への他の様々な干渉の礎である。政府はその存続のため、人が取引する自由の権利を侵害しなければいられないのであって、その他の件で市場や市民の権利に干渉しないことなど政府に期待する方がおかしい。
「西側の民主的な伝統」の中で育った人々は、政府が「自由選挙の民主的な過程を経て民に選ばれている」以上、政府の先制的強制力と市場へ与える妨害は正当化される、と感じがちである。こうした人々は、民主的な政府の下では、政府がやることは何であっても「我々が我々に」するので、許される、と思っている。しかし、民主国家の一人一人を、取るに足らない集団の一部としてでなく、個人の集まりとしてみると、その概念の間違いがすぐに見えてくる。
民主主義の人々は選挙で選ばれた代表を通して自分達を統治しているという信仰は、伝統で神聖化され、何遍もの繰り返しで敬われるようになったが、実際には、不可思議な戯言なのである。どのような選挙であっても住民の数割しか投票をしない。年齢や他の制約で投票できない人達や、困惑、無関心、目クソ鼻クソの選択に嫌気がさして、などの理由で投票しない人達等々もいて、そうした人々の声も届いて住民を統治する法が成立したのだ、とは到底言える筈がない。また、まだ生まれてきていない人々も、将来、そのような法に従わなければならない。それに加え、選挙権を行使した人々の内、落選者に投票したかなり大勢の少数派も、少なくとも当選者の任期期間中は、声を遮られる。
しかし当選者を選んだ投票者でさえ、実際に自分を統治しているなど、どんな見方をしたとしても言えない。人に投票したのであって、自分達を支配するある特定の法案に投票したのではない。当選者に投票した人々の間でさえ、実際の法案に投票するよう言われたなら、手のつけようがないほど混乱し意見は分かれてしまう。また、仮にその「集団の要望」とは何か決められたとしても、議員は投票者の要望に縛られていない。その上、アメリカのような成熟した民主主義の大部分の実権は、コネの無い限り住民の要望に応じない任命を受けた幾万人かの無名官僚が握る。
民主主義の形態をとる政府下では、支配される集団の一部のみが候補者から勝者を選ぶ。そして当選者は主に特別利益団体の圧力を基に問題の処理決定にあたる。実効的には、政治的コネを持つ者の、持たない者への支配となっている。政府経営の学校で受ける洗脳とは裏腹に、民主主義とは、選出された議員を介した支配の、残忍なイカサマなのである!
民主主義は不可思議な戯言であるばかりでなく不道徳でもある。他人へ自分の欲求を押し付ける権利は誰にもないのであれば、一千万人の人々にもその欲求をその一個人に押し付ける権利もない。なぜなら、先制的強制力の行使は誤りであるからだ。(そして、賛成が如何に圧倒的多数であろうと、道徳的に許されることには絶対にならない。)たとえ多数派の世論であろうと、意見は真実を創る事も変える事もない。リンチ集団は民主主義の実例であり、愚民支配が実現と化した形である。
英語の「ガバメント」は人治(men governing)、即ち、人が他人を治めることを意味する2121「人ではなく法の政府」という概念は、民主主義と同様、不可思議で意味がない。法は人によって書かれ人によって強制される。つまり「法の政府」は人の政府なのだ。。だが、人が多少でも人を治めているのなら、人は奴隷生活をしている。奴隷とは、人が自己所有の権利を行使することが許されず、他人に支配された状態の事である。先制的強制力で人が他人を支配する政府は奴隷制の一種である。政府を唱えることは奴隷制を唱えていることなのである。制限された政府を唱えることは、制限された奴隷制を唱える、という愚かしい立場をとることなのである。
端的に言えば、政府は先制的強制力を行使した人々によるその他の人々への支配をしており、奴隷制であり、誤りなのである。
(ある一定の地理的領域内での)報復的な強制力の行使における独占を保持する制度が政府であると主張する人々は、それがどのような独占の制度であるのかを意図的に述べない。だが、この理由は明白である。競争を阻止する必要があるので、政府が市場の独占であると主張すれば、それは明らさまに愚かしくなる。競争があれば、独占ではなくなるので、従って、(その人達の「定義」に従えば)政府ではなくなる。その人達が政府は強要的な独占であると認めれば、悪の制度を自明的に唱えているため、その誤りを唱えている事自体悪だ、ということがむき出しになってしまう。存在してきた全ての政府が、今日存在するものも含めて、その存在を維持してきたのは、その住民対象への先制的攻撃によってであり、更に、人権を犯すような攻撃をしない限り存続できない、ということも完璧に明白である。従って、政府が報復的強制力を行使することに関し独占を保持すると主張することは、先制的強制力に降伏、又は、先制的強制力の言い訳をしているに等しい。先制的強制力の制度が、報復的強制力を行使する独占を保持するなど、どのような道理的想像力をもってしてでも無理がある。このような考えは、政府が善良だという意識を維持するのに役立つため、愚かしい以上に邪悪である。
政府は強要的な独占であるため、先制的強制力によってその独占の地位を維持しなければならない。このためには政府が権力の貯蔵施設となる必要がある。権力が集中するので、政府にある制限を設けて住民が残虐に扱われるのを阻止する必要があるのだとされている。政府は独占であり、対象となる住民はその独占と強制的に付き合わされているので、政府に制約を与える外的機関は自由市場の中でのように競争することは許されない。政府権力を実効的に管理する程外的機関が強力なら、政府の独占的地位が壊れてしまう。従って、制約は、いわゆる抑制と均衡の形式をとる、内的機関でなければならない。だが、政府がどのような抑制と均衡の形態をとるにせよ、必然と政府は巨大化し、かさばり、無駄が増え、これを支える住民は元の政府機能より遥に重い負荷を背負わされる。(政府機能が強要的であることに目をつぶったとしても。)
その上、他人を支配する地位にある権力がたとえほんの微弱なものであったとしても、他人に権力を振るいたい者には魅力になる。理性的な人間、即ち、高い自尊心のある生産的な人間、は、そのような権力に興味を持たず、人生をやり甲斐のあるもっと興味深いことに費やそうとする。(それに奴隷制とかには一切関りたがらない。)だが、生産的な目標を作って進もうとすることを諦めてしまった者や、己れの基準で大切な事を何もしてこなかった者は、しばしば、その劣等感を紛らわせようと、権力の地位を狙い、他人に生き方を教えてやって偽りの自尊心をおぼえたがる。それ故、政府はその性格上、最善というよりむしろ最悪の人間をその地位に魅きつける傾向がある。たとえ最善の人間の最善の意図から政府が始まったとしても2222原著者がこのような可能性を認めているわけではもちろんない。あくまで議論展開上の提起に過ぎない。、その世代が去り、その意図が忘れ去られれば、権力を野望する者が乗っ取り、政府権威と権限の拡大に(もちろん、いつも「公共の福祉」のため!として)絶え間ない奔走をすることになる。
他人に権力を振るいたがるような人間を政府は引き寄せるので、どのような抑制と均衡の体系も政府を恒久的に制限することは不可能なのである。たとえどんなに憲法を厳しくしたとしても、他の誰かが抜け道を見つけ出すようなことが将来に渡って絶対にありえないような制約を政府に据え付けるのは無理なことである。抑制と均衡の憲法制限でも政府を制限している期間を引き伸ばすこと位が関の山なのだ。時にアメリカ合衆国は現在その世界記録を保持する。ファシズムと社会主義の混合の新しい形態の巧妙な全体主義へ退廃するまでに二世紀かかった。
自由の値段は恒久的な警戒である、と言われる。だが、そのような警戒は絶え間ない非生産的エネルギーの消費であり、「身勝手でない理想主義」からエネルギーを非生産的に消費し続けるのを人に期待するのは理に全く適っていない。全人口が常に警戒しなければ問題が起きてしまうような分野は自由市場に存在しない。もし、例えば、酸っぱい牛乳が配達されないよう、酪農業にそのような注意を払わなければならない、と警告を受けたら、誰もが驚き怒り出すであろう。
政府は先制的強制力を使って他人を支配する人々で構成される。これは、それぞれの利権集団が支配される立場にならないよう、支配を狙う、乃至は少なくとも支配側に擦り寄るとかするので、政府が人と人を必然的に敵対関係にしてしまうということになる。利権集団同士のこのような争いは、民主主義で最も顕著に見られるが、それは、民主主義では政府の政策が主に、票と金に特別な関係を持つ圧力団体によって定められるからなのである。それぞれの圧力団体が政府の操作を狙い競い合い、味方に有利な、または、敵を無力化する法案を通過させるまで戦う。この必然的に起こる慢性的な政治闘争により、それぞれの利権団体が自分達以外を全て脅威と思うようになり、攻撃的でなかたった団体でも、特に理由がない場合には自己防衛として、政府に圧力をかけ自分達に有利な法案の通過を狙うようになる。このようにして政府は異なった利権団体に属する他人や生活習慣の違う他人全員を各々が恐れ合う状況を生み出してしまう。黒人は白人からの抑圧を恐れ、白人は黒人が権力を「持ちすぎる」ことに不安を抱く。中産階級の「真面目な」中年は、ヒッピー2323【訳注】一般に社会的慣習とみなされている物事を否定し(普通とは異なる格好をしたり、生活共同体として生活するなど)、戦争と暴力に反対する人々。特に、1960年から70年代のアメリカのその種の若者を指す。(メリアム・ウエブスターより)の若者が大人になって権力を握りヒップホップ文化に有利な法律を無理強いする日が来るのを恐れおののく。 一方ヒッピーは、現在の法律が無理強いしようとしている「真面目な」生活習慣に憤る。これは、労働対経営、都会対田舎、納税者対税消費者、の永遠と続く大変無駄の多い全く不必要な戦いである。政府がなければ、他の集団が優勢になり法の力でその集団の意向を人に強いることなど、誰も恐れる必要がない。政治家を使って他人を脅すことが誰にもできなければ、職業も趣味も習慣も全く異なる人々が皆一緒に仲良く暮らして行ける。我々の社会における様々な集団間の紛争は、政府にある権力が主な原因なのである。
政府はその市民に対しても他の政府に対しても、強制力を行使する必要性の口実をいつも見付けてくる。全ての政府は、政府が営む分野において独占を維持してのみ存続が可能で、強制力の行使によってのみその独占の永続的維持が可能である、ということに気が付けばこれは驚くことでもない。戦争と弾圧は政府に付いてくる避けがたい副産物で、外圧や内圧に対して強要的な独占が率直に反応した単純な結果なのである。政府が独占の分野を広げようとすればするほど(全体主義的になるほど)、民への弾圧を更に強めなければならなくなり、弾圧による暴力と残忍性は更に激しさを増す。政府が支配する領土を広げようとすればするほど(帝国主義的になるほど)、更に戦争をしなくてはならなくなり、戦争は更に長引き破壊がより拡大する。全体主義度と帝国主義度は政府によって大きく異なり、従って、残虐性と暴力性にも差異が出てくる。だが、全ての政府は強要的な独占であるため、強制力を必ず先制的に行使する。政府がある限り、戦争と弾圧は必ず起こる。政府の歴史は過去も未来も常に血と炎と涙で書き綴られる。
政府構造は、それ自体の欠陥はともかく、裁量に徹底的に依存するため、道理がない。自由市場に含まれない制度は全て、市場の法則に縛られないため、裁量的な規則に基づいて構成・運営されなければならなず、それ故、正当且つ現実に沿った形にならない。個人営業は市場という現実に沿って進む。成功する企業家は需要と供給の法則に沿って事業経営を行うので、仕事でする決定理由も現実に基づいている。ところが、政府は市場の外にあるので、市場の現実には左右されず、従って、身勝手な裁量で営むしかない。政府体制を一体どう実施すべきか人が真面目に取り組もうとすれば、この真実性が見えてくる。(この不可能な作業に挑戦する人が自由を唱える人々の中には殆どいない理由もこれで分かる。) 一例として、裁判官はどのように選ばれるべきか。選挙それとも任命?もし選挙なら、任期はどれだけで、どの選挙区(地元、州、国)から?候補者は超党派それとも政党名は無し?もし任命なら、誰によるどんな裁量?投票する規則はどうあるべきで誰がどの規則を決めるのか?そのような決定の客観的な基準は何なのか?このような事柄についての議論には終わりもなければ実りもない。なぜなら勝手に決められない答えが存在しないからである。
個人事業では、存在の主な目的が儲けを出すことにある。(そしてその儲けは顧客を喜ばせることでしか生み出せない。)儲けは自由市場で営業を行う事業者にとっての「成功の合図」である。その合図は、仕事で顧客を満足させるのに成功したことを教えてくれる。損失が出始めれば、事業者は何らかの手違いで顧客が商品に不満なことを察知する。儲けの合図は顧客が一番喜ぶ方角へ事業者を確実に導いて行く。
ところが、政府は市場外の「非営利」組織で、自発的取引ではなく、物資強奪(税)によって生存する。政治家や官僚の成功の合図は儲けではなく権力である。公務員の成功は顧客を喜ばせる事によってではなく、他人の生活の支配を拡大させる事によってである。だからこそ政治家は選挙に勝利するのにとことんもがき、新しい法案を何十も通過させ、任命権を拡大させる。だからこそ無味乾燥の背広官僚は自分の部署の規模と権力と予算の拡大と部下の人員拡大に絶え間なく努力する。権力の合図は政府役人を他人への支配が最大になる方向へと確実に導いて行く。
個人事業は人々が求める物事を持続的に提供することで生存・拡大する。政府は強奪(税徴収)と取引や自由な生活の強制的な制限(規制)をして、人が欲する物事を人から奪い取ることで生存・拡大する。よって、個人事業が顧客の福祉と繁栄を絶え間なく増大させるのに対し、政府は民の福祉と繁栄を絶え間なく減少させる。
政府が庶民にすることで最悪なのは、正当な庶民の報いを政府が無理やりにでも犠牲にしてしまうことを政府はやらないではいられないということにある。政府が全く何もしなかったなら、政府自身の存続を正当化できなくなってしまうため、全ての政府は決定を下して行動を必ず起こしてくる。人々の利益と逆の行動を人々に強いれば不道徳になるので、理論的には、先頭に立つ者は常に「民の利益のために」行動するはずである。 だが「民」を構成する全ての人が同じ物事を利益と捉えるわけではないので、「公共の利益」となる物事は、少なくとも数人にとっては、正当且つ適切に違った思いを持ち、時には、全く逆の思いを持つことさえ必ずある。つまりこれは、一部の(政治的な影響力を持っていない)国民は「国家の利益」のために、自分の利益、望み、野心、更に財産や命までも、犠牲にしなければならないということを意味する。人はそのような価値を自ら進んで放棄すべきではないし、普通しないので、どのような集団でも、完璧に自発的な集団でない限り、統率者や支配者が集団の利益とみなす犠牲には強制が必ず伴う。
政府を保護と仲裁機能に限れば、民に課す犠牲は縮小するが、犠牲を皆無にすることは絶対にありえそうにない。抑制と均衡の無駄の多さと競争の手の届かない組織の非効率性で、政府行政は事業者のサービスと比較して遥に費用がかかり効率が悪い。よって、政府の「用心棒サービス」を無理やり買わせられれば、これは確かに犠牲である。政府は強要によって独占の地位を保持しなくてはならないのであるから、政府が政府として存続する限り、民に犠牲を無理やり支払わせなければならないのである。
全ての人間には自己の利益を見つけ出し自己の目標に向かって進む責任がある。政府が人からこの責任の一部を取り去れば、政府は人の行動の自由も取り去らなければならない。つまり、政府は人権を犯さねばならない。更に、政府が人に無理やり当人の然るべき利益に反して行動させれば、政府は当人の理性的判断に反して無理やり行動させていることになる。結局、そのような行為が、人と人が認識する現実との間に、他人の意見や出来心をはさむことになり、人の生存のための基本道具である、人の心を、犠牲にすることを強要しているのである。
政府は常に人類の進歩と幸福を妨げる手かせ足かせとなってきた。人の生活が比較的単純だった原始時代でもこの鎖はもう充分邪悪だった。精錬された技術と核兵器のある複雑な社会では、これは自滅的白痴状態である。現代社会の複雑さに政府体制はどうあがいてもそぐわないという事実は、社会問題に対する政府の「解決策」のお粗末な失態、政府政策の慢性的矛盾と混乱、立て続けに崩れ去る政府企画で、益々明らかに成ってきている。政府は、甘く見ても、人類が横穴から出てきた時代あたりで脱皮しておくべきだった原始的時代錯誤であり、とうの昔に廃棄しておくべきだったものである。
大多数の人は国内外からの攻撃から自分達を守るため自分達には政府が必要だと固く信じている。しかし、政府は民からの犠牲を必ず要求してくる強要的な独占である。政府は外部からの抑制を受けない権力の貯蔵施設であり、永続的に制限されることは不可能である。 政府は最悪の人間を組織に引き寄せ、進歩を阻害し、個人自らの判断に逆らう行為を強制し、その強要的存在によって国内外の紛争頻発の原因にもなる。こう見渡せば、問題は、「攻撃から守ってくれるのは誰?」ではなく、「政府『用心棒』から守ってくれるのは誰?」なのである。制度化された暴力の執行業を雇って暴力から自分の身を守るという矛盾は、飼っているインコを守るため猫を飼うよりはるかに無謀なことである。
政府の本当の性格を知りながらなぜ、大多数の人が歴史を通して政府を受け入れ、自ら懇願さえしてきたのであろう?最も分かり易い理由は、新しい考え方、特に、文化的現状からなる親しみのある考え方とは根本的に異なる考え方、を生み出す能力、それどころか、受け入れる能力でさえ、大多数が持つに至るまで人類は発達していない、ということになってくるのかもしれない。有史が綴る太古から政府は存在してきており、無政府でどのように営んで行くのかある程度詳細に思い描いてみることには、思考作業の努力を要し、多くの人はそこまで努力して考えようとしない。その上、真新しく、馴染みのない、未知なものは恐怖であり、どうせ無理だからと決めつけ考えを放り投げてしまった方が気持ちがいい。(ライト兄弟さん、君たちの妙な機械は絶対飛びやしないよ!)
政府役人はありとあらゆるやり方で政府の必要性を人々に納得させて来た。有効な武器の一つが政府助成の教育であり、一人で判断できる能力を持つ前に若者をその教育で愛国主義に洗脳し、国家主義思想の知識層を生み出し、その知識層の考えが国家主義の大衆を生んできた。他の手口では、政府に伝統と虚栄を注ぎ込み、それを「我々の生き方」と見立てさせる。こうすることで反政府であることが、親近感、高潔、善の全てに逆らうことだと信じ込ませることができる。
自己責任を持ち、完全に独りで自活することに、執拗な恐怖感を、通常自認しないで抱いている人が非常に多くいることも、政府を受け入れる要因の一つである。政府がなければ、生活保護の給付がなく、無駄の多い役所の仕事がなくなる、という情報そのものより、これは遥に深刻な意味合いを含んでいる。導いてくれる、そして、失敗しても責任が押し付けられる、そういった究極の権威がない状態で、今度は、自分の意志で決定しその結果を自分自身で受け止める、そのような責任と危険性への強い恐怖観念がそこにはある。それ故、「このような危機には強い指導力がなければいけない。」とか「我々にはマシな新指導者が必要。」とか「神よ、統率者を与え賜え!」とかの悲鳴が出て来る。責任を恐れる者は、そうした指導者が独裁者になったとしても、危険性を受け入れ己れを悩ます問題に解決を見出す努力をするより、指導者に頼る方が容易に思えるのである。(ナチスドイツの「ハイル・ヒトラー」の愛国主義とこれが導いた恐怖政治、残虐行為を思い出して欲しい。)この指導力を宿す政府が無いと、そういう人達は途方もなく困惑して目的を失ってしまう。
だが、以上の事実を踏まえたとしても、政府に変わる選択肢は混乱のみである、とした観念をもし鵜呑みにしてこなかったのなら、政府の無い社会についての考え方が大多数の者に受け入れられていたかもしれない。政府は邪悪かもしれないが、結局のところ必要悪なのだ、と大多数は感じる。
必要悪など存在しない事実はともかく、人間の自由の侵害、市場への勝手な干渉、略奪と権力闘争など、政府が起こしてきた混乱の全てを吟味してみると、政府は混乱を防ぐという仮説はちょっと軽率、では済まされないようにも見える。自由市場は混乱を阻止するのが充分可能で、しかも、本書が後に証明するように、人の自由を犯したり侵略戦争を起こしたりすることなく、その阻止をやり遂げる。真の選択肢は、政府か混乱かではなく、政府の侵入によって生じる混乱的硬直か、それとも、開かれた市場で自由な人間達が取引を行う結果自然と生み出される平穏な進化的発展かなのである。
政府は必要悪ではない。不必要な悪なのである。