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第II部、レッセフェール社会

第12章、 立法と客観法則

レッセフェール社会は、立法の機構が存在しないので、社会秩序と正義を維持するのに必要な客観法を欠いてしまうという異論が政府擁護論者らから出ている。だがこれは、客観法が立法府がした仕事の成果であるということを仮定している上、この仮定自体、法の意味と性質を誤解している。

「客観」とは何か実在するものに関して指す時に用いる言葉である。人の心と関係して使われるときには、考えが現実にある事と一致していることを意味する。心的な客観性は、「人の心とは別」ではないが、現実にある事が認識された表れであり、事実を矛盾の無いように意識に統合することで、正確な結論へと導こうとする。ここで注意しなければならないのは、心は現実を生み出さないという真実である。人間の意識の機能は、現実を認識することである。現実は、理性的な工程における客観であり、主観ではない。(哲学の学生なら、この段落が、形而上学的客観性と認識論的客観性との区別についての論述であることに気付くはず。)

だとすれば、客観法則とは、規則というより、現実の性質を表現する原理のことである。客観法則は、ある人物や集団、又は、社会全体の主観的な思いつきや偏見の表現ではなく、現実に根ざした法則なのである。法則は物事や工程の性質から発生し、その性質とは絶対に矛盾を起こさない。この理由により、客観法則は常に「機能」するのである。現実とかみ合わない主観的な思いつきに基づいている法は、この法に関係した性質と矛盾があるため、混乱や破壊を招く。

客観法則は現実に根ざした法則であるため、道理を用いる者には常に理解可能である。つまり、客観法は常に理に適っているのである。客観法則を人の行いに関することに適用するとそれは道徳律となる。なぜなら、人の性質に関する客観法則は、理性的な生物として人の命、幸福、利益を拡大させる方向に機能するからである。人の振る舞いに関して言えば、客観法則が現実の性質から発生しているため、つまり、物事のありのままの真実から生じているため、必然的に実践的且つ理性的且つ道徳的になるのである。

人間関係の性質に関する客観法則が社会の秩序を維持するのに必要なのは確かであるが、これを理由にある立法府が議決した法律は社会の秩序に必要であると結論づけるのは、論理の飛躍である。この論理の飛躍について理解するため、制定される法律と自然法則の違いについて考察して行く。

自然法則は、実体の作用を司る表面上の属性であり、その作用の属性はその実体特有という意味で固有な性質を持つ(ここで使われる「自然」とは現実の物事のあり方に「自ずと付きまとうありのままの」と言う意味で用いられている)。自然法則は、実体の性質に固有であることから、常に客観的である。自然法則は、実物の性質から本質的に分離不能なため、現実に根ざさるを得ない。これは、自然法則が実践的であることを意味する。つまり、自然法則は、ありのままの事象に関することであるため(ありのままでない事柄とは無関係)、常に「機能」する。自然法則は撤廃できないし、抜け道もない。自然法則を「破る」者は自ら自滅を招いており、遅かれ早かれ破滅する。

自然法則の分かりやすい例が重力の法則である。これは地球が他の物体を引き寄せる性質であるため、人が何かを放すと物は落ちて行く。この法則は客観的且つ普遍的で且つ不可避である。流体力学の自然法則を利用した飛行機を飛ばすことができても、これで重力の法則が矛盾する、或いは、撤廃されることにはならない。エンジンが故障すれば分かることであるが、それでもまだ地球は飛行機を真下に引き寄せている。

自然法則は人のまわりの環境ばかりでなく人にも適用される。人もまたある特質をもった実体である。人には出来ることと出来ないことがある。人は歩いたり走ったりできるが、松の木にはなれない。人はある特性を持った生物であるため、生存と幸福のためにはある特定の行動をとる必要がある。人は食べなければ餓死する。健康を維持するにはある物質を体に取り込まなければならない。例えば、壊血病を予防するにはビタミンCを摂る必要がある。何かを知りたければ、五感と知能で学ばなくてはならない。友情や取引、労働の分担や知識の分かち合いのような生存に役立つ貴重な価値が欲しければ、人付き合いを求め尊ばなければならない。

人の身体的性質、そして、精神的性質までも、自然法則の対象になることは一般にも認識されているが、道徳の領域、特に道徳的な人間関係の領域は、完全に自然法則の適用外であると仮定されるのが一般的である。だが、この仮定は、説明によって示されたからではなく、暗黙の了解によっている。というのも、理性的には説明不可能だからである。人はある特性を持った生物なので、どの分野においてもその特性から派生する原則の対象となるのに、人が人と付き合うときだけは例外である、と言えば全くおかしな主張になる。人は人と関係を持つと人の特性が消滅するだろうか?もちろんそんなことはない!

自然法則は人間関係にも適用し、その他の分野同様やはり、客観的且つ普遍的且つ不可避である。これは、人間関係の分野でもやはり、医学の分野同様、行動には帰結が伴うということを示すことで証明される。人が毒を飲み込めば(たとえ、本人がビタミン剤だと完璧に思い込んでいたとしても)体調を壊す。人が他人を侵害すれば、人から信用を失い、避けられ、(政府の干渉がなければ)多分、被害者への賠償を迫られる。顧客に嘘を付けば、より評判の良い競争相手に仕事を奪われる。自然法則を「破る」ことに伴う帰結は不可避である。人がどんなに凝った企てをしようとも、人の生存の特性と矛盾する行為を強行すれば受難する。その帰結は直ちに訪れず、明瞭ではないかもしれないが、避けることはできない。

自由市場は自然法則が人間関係の分野、特に、経済的な結びつきに関する分野、に作用した結果である。生存と幸福は与えられるのではなく、獲得するものであるため、人は至福になるよう行動する(そう行動しなければ生けていけない)。至福を得るには、他人と交換し合わなければならず、交換時には可能な限り有利な取引をそれぞれがしようとする。買い手はそれぞれが競い合って価格を押し上げ、売り手は競り合って価格を引き下げる。この二つの勢力が交差する場所に価格が収まると、供給に過不足を生じさせることなく取引が行われる。従って、需要と供給の法則は、他の全ての市場法則と同様、実は自然法則であり、人間というある特定の実在の性質と必要性から直接生じて来るのである。自由市場が外部からの介入なしで整然と機能するのは、市場法則が自然法則であるという理由にある。自然法則は常に実践的であり、常に「機能」する。

政府は人為的構成であり、そのあり方故、自然法則をなおざりにする。他人に統治されることを必要とさせる性質など人にはない(もし人にその様な性質があったとしたなら、統治者も統治される必要があるため、統治者を統治する人を探さなけばならなくなる)。実際には、人の性質で必要とされるのは、生存と幸福のため、己れの決定で己れの生活を管理出来ることである。だが、この権利を政府が不可避的に犯す。政府が必然的に自然法則を無視することによる帰結は常に破局であり、人類史は全て流血と退廃で埋め尽くされている。

人間関係における自然法則の作用はレッセフェール社会より政府社会の方が遥に分かりにくい。なぜなら、政府が私利私欲に励む中、法則のもたらす原因と結果を紛らわすか無視しようとするため、行為に伴う帰結の多くが(悪質な行為の場合は特に)うやむやにされてしまうからである。政治家は不当な権力と得もしない賞賛を欲しがるため、自分の金でもないのに資金を公約し、権利もない事に口を出してくる。労働者の昇給(給与は無から生み出されないため、昇給は生産性の向上でしかできないことなのだ)の公約もその一つの例である。政治家が最低賃金法を可決させると、自然法則である経済法則に逆らっているように見えるが、実は、うやむやにしただけである。一部の従業員の昇給を補うため、雇用者はやむを得ず他の従業員を解雇するため、失業者が現れ貧困層ができる。一部の人の給与の上昇は、他の人の給与をゼロにする犠牲を払っている。自然法則は物事に内在するものであるため、政治家がどんなに頑張った所で、立法によって法則が生み出されるようなことはない。自然法則はレッセフェール社会で作用するのと同様に政府社会でも作用するが、官僚の複雑な介入のお陰で分かりづらくされてしまうのである。

自然法則は人間関係に適用されないという暗黙の仮定によって、社会秩序を保つためには、その「空白を埋め」て、制定法の法体系を築かなければならないと、人が信じ込むようになってしまった。少なくとも、制定法によって、自然法則が客観的且つ普遍的に適用され、全ての人に簡単に理解されるよう、成文化する必要がある、と信じ込まれている。

制定法とは政府権威が築き上げ強制する成文化された規則のことである。制定法は、客観的な原則に基づくものもあれば、現実を無視した原則に則ったものもある。制定法によっては、時限立法のように、何の原則にも依らないものもある(この様な法制定は危機状態にあると感じる政府に特徴的である)。

客観的な原則に基づいた法案しか可決できないようにさせる仕組みを政府の性質に組み込ませる余地はどこにも無い。実際、歴史が示すのはこの逆であり、殆どの法律は政治家の主観的な思いつきに基づいている。

客観的な原則に基づいていない制定法は非道徳的であり、不可避的に害になる。現実、即ち、物事のありのまま、に反するものは機能し得ない。客観的な原則に基づいている法律は、自然法則を法的に記述したに過ぎず、従って、蛇足である。人は自然法則を発見し、他の人が理解できるよう本に書き表すことはできるが、法則は既に不可避的に存在するのであって、法則を「与える」ことなどできる筈がない。一旦、自然法則が発見され、理解されたところで、これは性質上既に必須と化しているのであるから、再び法的に記述して「義務化する」ような必要性はどこにもない。

制定法は、たとえこれが客観的原則に基づいているものであったとしても、阻止又は処罰する対象の犯罪が起きる前に書かれなければならない。どんな犯罪も全て異なる事情で異なる人によって犯されるので、全ての事件に適用できる法律を作るのは到底無理である(自ずから無効と化するほど融通を効かせれば別かもしれないが)。つまり、法律の背景にある原則が客観的(現実に則っている)であっても、個別の事情へのその法律を適用する仕方は客観的にはなり得ない。客観的な原則は、物事の性質に根ざしているので、確実で普遍的ではあるが、この普遍的な原則の適用は、様々な事件の事情に合わせて変化させなければならない。事件への適用が不適切ならば、客観性を欠くため不当になる。

立法府がどんなに経験を積んでいようとも、又は、どんなに注意深く議論を交わしたとしても、決議している法律が将来扱う全ての事件のあらゆる事情を考慮に入れた、全知状態的な法律を作成するのは不可能である。実は、事件の多様性にかかわらず満遍なく全ての人を束縛する法を制定し書き下すという、その作業自体が、法の適用を固定化しており、法の客観性を欠落させてしまう。つまり、制定法はたとえそれが客観的な原則に基づいていたとしても、適用の際には客観的になり得ないのである。

議員らは様々な事件に適合するよう法律に柔軟性を持たせる必要があることを理解しており、この問題を解決すべく努力する。それぞれの法律を書くときには、あらかじめできるだけ多くの状況に対応できるよう、通常、処罰が柔軟に規定されるため(例えば、二年から十年の懲役刑など)、個々の件に関しては最終的に裁判官の裁量に任される。ところが、この生真面目な取り組みのお陰で、法がかさばり複雑で扱いづらくなり、解釈を困難にさせて、読むのでさえ大変になる。議会は膨大な量の文書に時間を浪費し、ある法律の曖昧な言い回しの技術的な解釈のために人が起訴されたり釈放されたりする。法律が充分に柔軟性を持ち、且つ、完璧に正確になるように議員らが書こうとするお陰で、法律は恐ろしい程までに複雑になり過ぎて、弁護士(法体系の規模と複雑さにそのまま比例して稼ぎを上げる人々)でさえ混乱する。複雑な制定法は数万にも達し、各々の法律用語はあまりにも専門過ぎて正に他国語と化している。にもかかわらず、困惑する庶民には、法の無知は言い訳にならない、と叱りつける!

個々の件に当てはめることができるように法律を柔軟に書こうとすることで、法の普遍性も失われる。二年から十年の宣告を言い渡す権限を持つ裁判官の裁量の決め手となる基準は、自分の個人的な信条以外特に何もない。裁判官によってはいつも軽い刑を下す者もいれば、いつも厳しい者もいるので、被告の運命が決まる際には、裁判官の性格とその日の気分が、通常、事件の実状と同じくらい重要になってくる。懲役刑の刑罰制度から被害者への賠償制度に制度を変更しても、司法機構が自由市場ではなく政府の機能に留まっている限りこの問題は解決しない。自由市場の仲裁者が裁定を下す基準は、「修正機構」が組み込まれた消費者の願望が合図を送る利益と損失の信号である。だが、政府の裁判官には判決の基準になる信号の合図は存在しない。たとえ「顧客」を満足させたいと思ったとしても、成すべき術を教えてくれる信号は存在しない。政府の判事は、柔軟性のある罰則規定を目の前にして、自分の意見と思いつき以外、何の判断基準も持たない。

自然法則が自由市場の環境下で人間関係に当てはめられると、原則と適用の両方が客観的となる。自然法則の原則は変化しないが、原則の適用は個々の件に常に当てはめられる。なぜなら、事件を取り巻く自然法則はそれぞれの事件特有の人と状況から得られるからである。犯罪が犯されると、犠牲者に損失が出る。この損失はどの事件でもある特徴を持つ。犠牲者がお金や車や足を失えば、賠償金はその特定の額になる。損失の額を見積もるとき(特に取引不能なものの場合)、仲裁者はサービスを購入する消費者の価値体系に支配されるため、利益と損失の信号が基準を与えることになる。それぞれの事件は事件の特徴に沿って裁定される。加害者の運命は、加害者自身の経歴と侵害行為を基に決められ、その件について特に何も知識のない完全に無関係な(事件の起こる前から)任命された人々の勝手な判断で決まらない。

自由市場が適用する自然法則も、簡潔で分りやすい。正当な人間関係の基本則は一つのみである:

先制的な強制力、これを背景にした脅迫、それに変わる効力(詐欺など)で他人の価値を失わせようとさせることは誰にも許されない。

明らかに、殺人、人質、窃盗、偽造の禁止など、他の全ての規則は、この一つの自然法則からの単なる派生に過ぎない。他人と適切に振る舞っているかどうかを知るのに、法の膨大な資料や大学教育は必要ない。「自分の強要的な行為で誰かの価値を失わせているだろうか?」という単純な質問を自分に問いかけてみるだけでいい。この一つの質問に「してない」と正直に答えられる限り、法や報復を恐れる必要は全くない。

この基本的な人間関係の自然法則は、世界中の殆ど全ての人が既に暗黙のうちに了解している。「(喧嘩で)先に手を出すのは絶対に良くない」のような決まり文句にもそれがよく現れている。この自然法則が広く大多数の人々にほぼ自動的に守られていることから、政府の絶え間ない圧力にもかかわらず、まだ完全には人間関係が血なまぐさい無秩序に崩壊していない、という現実の裏側が見えてくる。殆どの人はこの自然法則に則り近隣の人々と平然と暮らし、意見が合わないからといって警察や判事に連絡するような事はまずやらない。そして、大抵の場合、この行為の基準となる自然法則を取り分け意識してそうしている分けでもない。

制定法が社会に必要であるという仮定の背景には、立法府は住民に拘束力のある法を通過させる道徳的な権利を持つという更に基本的な仮定の存在がある。民主主義を唱える人々は、立法に関して「住民を代表する」権利が議員にあるのは、議員が住民から選ばれたと言う事実から来ている、と主張する。しかし、「住民」とは集団主義的な概念である。「住民」として生息し、意見や関心、目標を持つ実在はない。実在するのは個人だけである。ならば道徳的に見て「政府権限下で」個人を代表する権利が議員にあるだろうか?

民主主義では、立法府の役割は、理論的には、「公共の利益」とは何かを発見し、住民を統治する法令を制定することである。しかし、「住民」などという実在がないように、「公共の利益」も存在しない。存在するのは政府の支配を受けるありとあらゆる個人の多種多様な利益だけである。従って、議会が「公共の利益のため」に法律を制定することは、実は、住民の一部の人々の利益のためにその他の人々の利益を犠牲にすることなのである。議員は、選挙で選ばれる公務員であるため、お金と票が必要になり、通常、政治的なコネのある人間の利益のためにコネのない人々の利益を犠牲にする。また、政府の収入源は生産性のある住民のみであるため(非生産的な人々から政府が取り上げるものは何もない)、通常、政治家を含む無能な人々のために、有能な人々が犠牲になる。

政府の構造にはこの様な不正が不可避的に組み込まれている。政府は強要的な独占であるから、領土内の住民全員が無理やり関わらせられる。従って、競争しながら最善のサービスを販売する人々を住民が自由に選べるということを政府は必ずや禁止するようになる。全ての住人は政府のサービスを無理やり受け入れさせられ、住民の損得に関わらず、政府の基準で暮らさせられる。

政府がたとえどんなに「民主的」で「制限され」ていても、そこに住むいろいろな人々の一人一人の利益を代表することは実際無理である。個人の利益だけが真に存在する利益であり、「公共」には実体が無いため、「公共の利益」というようなものはありえない。政府は、住民一人一人の利益を代表することができないため、一部の人々の利益を他の人々の犠牲で補いながら存続していくより仕方ない。そして、犠牲は常に価値の全総量を減少させる。

自由市場では、強要的な独占などというものはありえない。自分の権利と同様に他人の権利も尊重する限り、全ての人間は自分の利益を自由に追求でき、「公共の福祉」や「過半数の意志」などのために個人の利益が犠牲になったりしない。レッセフェール社会では、人は物資やサービスが気に入ればどこの商店からでも購入できる。ある人はメーカーXを気に入っているが、51%の消費者はメーカーYを好んでいて一致団結しないと社会が成り立たないという言い訳で、メーカーYの品をその人が買わざるを得なくなるようなこともない。

選任された議員らは、住民の利益を犠牲にすることを防ぐことがたとえできたとしても、議員例外の全ての住民に拘束力のある法律を制定するようなことはそれでも正当化されない。意見は、たとえ過半数を越えるからと言っても、真実を変えられない。真実は人がどう考えようとも真実である。五千万人のフランス人全員が間違えることもありえるし、しばしばそうである。従って、たとえもし有権者の過半数が完全に間違えてある候補者を支持したりしても、或いは、たとえもし議会の過半数がとんでもない間違えで法案を判断していたりしても、過半数の間違えた意見でその事実が変わることはない。もしあることを皆が(もしくは、知識人や実力者のような人達が)そうだと思えばそうなると信じるのは全くの迷信である。大勢の住民に選ばれた議員から成る議会の過半数で法律が通るかもしれないが、それでも、大多数の集団的妄想とは裏腹に、法律が不道徳で破滅的であることは大いにあり得る。そして、たとえ集団が過半数であったとしても、不道徳で破滅的な法律を個人に押し付ける権利は集団にない。

「制限された」政府を提唱する人々が、この問題を回避するため、政府は「適切な」機能だけに制限され、不道徳で破滅的な法律を通してはならない、ということを大変厳しい憲法で明確に規定しようと思案している。しかし、これは、憲法を書く人と、憲法を守らせる人は、多数決で選ばれなけばならない(もしくは選ばれた人によって任命される)、という事実を無視している。憲法は書く人と守らせる人次第なのであり、多数派の意見が立法の件で真実を変えることが出来ないのと同様、憲法草案と憲法解釈においてもやはり真実は変えられない。政府の方針を決めるため大衆に意見を煽って投票させる方法を採るのが間違えなら、その政府の形態と構造を決定させるためにこの方法を採れば、間違えは更に深刻になる。

それに、明文化された憲法は国民と政府の間の社会契約であるという話は虚構である。契約は署名した人々しか束縛しない。従って、国民と政府の間の契約が、「国民」を束縛するためには、全ての住人が署名しなければならないことになる。アメリカ合衆国憲法は、生まれて来て束縛を受ける数億の国民どころか、明文化された当時の国民にでさえ署名されていない。3333アメリカ合衆国憲法の不当性についてはライサンダー・スプーナー氏の著書「No Treason: The Constitution of No Authority【反逆罪なし:権威の無い憲法】」(92701カリフォルニア州サンタアナ郡西第四通り104、ランパートカレッジ出版より)に優れた描写がある。もし憲法を発布するのに、憲法に束縛されたいと思う人全ての署名が必要だとすれば、同意しないで署名を拒否する人の権利も認めなければならない。拒否する人は自己防衛を自主的に手配することさえあるわけだから、もしそうなれば、政府の代わりに自由市場で競争する一業種が誕生していた。

法律や憲法は正当にもなりえなければ実践的にもなりえない。制定法は、客観性と適用時の普遍性を持たせ、理解し易くするため、自然法則が成文化されたとみなされているものの、現実はどれもちょうどその正反対の結果である。自然法則は、現実に根ざし、それぞれの場面の事象の性質から引き出されるため、原則と適用の両方において客観的である。制定法は、たとえこれが客観的な原則に基づいていても、適用時には、多様な事件に応じて変化するようなことがないため、客観的には到底なり得ない。自然法則は、物事の性質そのものであり、その性質は分離不能であるため、普遍的に適用される。制定法は固定的に書けば各々の件に合わないし、柔軟に書けば基準を持たない判事の裁量に任されてしまい、原則と適用の両面で普遍性を持たせる事が出来ない。人間関係における自然法則は簡潔な一文で済み、容易に理解できる。制定法は、今だ起きていない多種多様な事件の事情を想定して書くように努めるため、肥大した体系にどうしても成らざるを得なくなり、理解に苦しむ程複雑で取っ付きにくくなる。

自由市場は自然法則が作用した結果であるため、市場のどの分野でも自然法則が容易に適用される。価値の保護や争いの仲裁、不正の是正の事業に関する法則は、経済学の一般法則の派生に過ぎない。そして経済学の一般法則は自然法則の派生である。自由市場の消費者が食料雑貨品店で最善の物資やサービスと価格を約束されることや、杜撰な嘘つき製薬会社から消費者が守られることなどの経済学的法則は、防衛、仲裁、更正の分野でもやはり働く。ある特定の分野は政府官僚に常に任されてきたからという理由で、戸惑う弱者を自然法則が見放すようなことはしない。

自由市場にいる自由な人間は、自然法則に従って生活を営む。市場はそれ自体が自然法則の結果であるため、法則を「破る」者には罰が下るように市場は振る舞う。国王や村の魔術師が人々を操る必要がもはやないのと同様、制定法も時代錯誤の不当なぎこちない障害でしかなく、不必要なのである。