「でも、守ってくれる政府も無いのに、レッセフェール社会は外国の襲来に一体どうやって対処するの?」と多くの人が聞いてくる。この質問の背景には、自覚しないで決めつける、二つの仮定が存在する。一つ目は、政府は一種の社会外の存在で独自資源を有し、その防衛資源は政府の行為を通してのみ利用できる、ということである。二つ目は、政府が国民を実際に守ってくれるということである。
実際には、政府が防衛資源を獲得する術は配下におく社会からに限られる。外国の軍隊の襲来に対して政府に管理された社会が防御的な行動を取るとき、これに必要な資源はどこからもたらされるのだろう?戦う兵士は私的個人であり、通常、政府に仕えるため徴兵で召集させられる。軍事兵器は私的個人の仕事で製造される。兵器の代金や兵役への僅かばかりの給付手当、その他軍隊の補助組織を成す職員への給与を賄うための資金は租税によって私的個人から押収される。政府からの寄与は、唯一、強制力を行使してこれ全てを指揮することだけである。強制力で徴兵と税の徴収を行い、補助的な強要で配給制、給与や価格の範囲設定、旅行規制等を行う。従って、外国の侵略から社会を守るには政府が必要だと堅持することは、外国の侵害から住人を守るためには、国内における住民に侵害行為を働く必要があると堅持しているに等しい。
侵略から住民を守らせることの明確な不道徳性にもかかわらず、一部の人々はそれでも、「強要的な防衛は自主的な防衛より優れているため、許される行為であり、戦争のような緊急事態には必要になることさえある。」と言い張る。道徳と実践の分裂症を患ったこの種の議論が誤りであることは、簡単な考察から示すことが出来る。戦争を含むあらゆる努力の報いは、そのために働く人々の思考力と労力が注がれる量にかかっている。強制的な圧力下でも、人はかなりの努力とある程度の思考力を振り絞ることができるが、恐怖感に駆り立てられ仕方なくやる人の仕事は、自由な人間が野心的に精力的な努力で本当に何かを成し遂げたいと思ってする仕事に比べれば、足元にも及ばない程、効率性や生産性の面で劣る。熱心に仕事をする人は効率的に働くばかりでなく、より良い方法で目標に到達する知恵も用いる。そうした改革が成功の秘訣となる。
それに加え強制的な制度は必ず資源を浪費する。なぜなら、強制される犠牲者が嫌がれば嫌がるほど、更なる労力が強制のために費やされ、その分だけ労力が分散して本来の仕事に向けられなくなるからである。人はやりたくない事を無理強いさせられると(或いは、やりたいことをやらせてくれないと)、その奴隷状態をごまかす複雑で凝った方法を考え付くもので、こうしたことには人は驚くほど優れている。たとえ国家が最悪の全体主義だったとしても、戦争の正当性と必要性を自国民に納得させるためのプロパガンダに莫大な労力を費やさなければ、戦争が開始できない理由はこれなのである。
政府の奴隷制が非道徳的であるのと同じくらい、自由制は道徳的であるばかりでなく、政府が非実践的な位に自由制は実践的でもある。庶民は自らで自衛する手段を整えることはないと思い込むのは愚かしく、禁止されなければ実に上手くやる。庶民は自由の尊さを把握できないほど無知ではないし、自己防衛しないほど命に無関心でもない。それに、政治家や官僚、国防総省の将軍がどうしたら良いのか教えなければならないほど何も分かっていないわけでもない。人は自由になればなるほど優れた活動をする。こうしたことが真実である故、外国からの侵略を防ぐ自由市場の体制は、同程度の規模、資源、経験を持つ政府の防衛体制より遥に優れたものになることが期待できる。
政府が無ければ社会は無防備になるという信仰の背景には、政府社会は政府によって実際上守られているという前提がある。ところが、住民から無理やり取り上げるもの以外、実は政府は何も持っていないのだと気付けば、政府が国民を保護できることなど到底無理だということが直ぐに分かって来る。なぜなら、国民を守るための資源を政府は一切何も持たないからである。実のところ政府は寄生する住民がいなければ自分の身を守ることすらできない!人は歴史を通して、政府の独裁に服従するよう言い聞かされ、他政府のより残忍な略奪から国民を守るため、政府の存在は極めて重要だ、と教育されてきた。政府は、このプロパガンダで騙しておきながら、国民に政府を守れと誘い強要してくる!政府は国民を守ることするらしない。と言うより守れない。政府がやるのは政府を国民に守らせることである。通常、帝国主義的な馬鹿げた政策で外国政府を悩ますなり脅すなりして交戦になりかけたところでこれをやる。外国の侵略から政府は守ってくれるというのは虚構なのである(虚構であるが、悲しいことに、大抵の人が信じ切ってしまっている)。
政府は住民を守れない。強要的な独占は住民を奴隷の対象とするばかりでなく、他の強要的独占(他の政府)にも常習的に喧嘩を仕掛ける。住民がそうした強要的独占を守るのは犠牲的で愚かしい。外国の侵略に関して言えば、政府は利点と言うより深刻な欠点であり、住民は自由市場の防衛体制に頼る方が遥に賢明なのである。
外国の侵略を防ぐ自由市場の方法は、規模や強度に違いはあるものの、域内の侵害(地元の暴漢など)を防ぐときと原則は同じである。どちらの場合にも、その原則は、自分の利益になると本人が思う限りにおいて、自分の財産を守る自由と責任の両方が、それぞれの人間にある、ということである。道徳的には、本人の身柄と財産を守ることを他人は誰も妨害することは許されないし、もし本人が守りたいと思わないなら、自分で守ることを他人が強制することも許されない。もし、ある地域の住民が、近所の一人が「公平に課されれた防衛負担」を担っていないと感じたなら、自己責任である自衛を引き受けることが本人のためになると理性的な方法で説得する努力をすることは自由にできる。だが、たとえその意見が明確な多数派だったとしても、近隣の住民が暴力や暴力を背景にした脅しで本人の迎合を強要することは許されない。第一この方法は実利的でもない。外国からの侵略から近所を防衛する事を無理強いさせられた人は、強要する近所からも身を守ることに労力を使うようになる。
レッセフェール社会では、外国の侵略からの防衛は、他の種類の防衛と同様、自由市場で販売される。自然と生じて来る保険業界と警備業界の緊密な関係から、おそらく、保険証券の形態で販売される可能性が最も高い。つまり、外国の侵略から保険加入者を保険会社が守る約束をし、そのような侵略から生じる損失を補償する証券を販売する(被保険者本人の攻撃が原因で紛争が起これば契約はもちろん無効である)。保険会社は、補償しなければならない損失を防止するための防衛に責任を持って取り組み、どんな損失も巨額の支出になることを覚悟して、最も有効な防衛手段が講じられるよう配慮する。3434これは、レッセフェール社会で普及する火災保険と消防企業との間の関係に類似する。保険会社は火災保険を販売し、消火活動する独自の施設を維持するか、或いは、別の企業の消防サービスを被保険者のために購入する(保険加入者でなくても料金を支払えばサービスを利用できる)。多くの保険会社は他社の消防サービスを契約利用する方が独自のサービスを使うより便利と判断するようになることから、どの地域にもそれぞれの保険会社ごとに消防施設が設けられるようなことはない。
保険会社の防衛で防御し切れなかった場合、現代的な戦争では被害は広範囲に渡るため、保険会社は補償しきれないのではないか、と批判的に考える人々が疑問を投げかけている。もし敗戦すれば、もちろん、保険会社の職員も、被保険者も、誰も彼も、通常の経済活動をするような立場ではなくなる。もし戦勝なら、保険会社は補償額を支払い、払いきれなければ倒産する。保険会社に支払い能力があるかどうかを見定めるには、被害の範囲と程度、そして、保険会社の資産のあり方という二つの重要因子を考慮に入れなければならない。
現実に起こる前に損害の規模を予想するのは不可能であるが、全ての主要都市が完全に破壊されるような厳しい状況まで想定に含めなければならない理由はどこにもない。そもそも政府自身の行為が原因で脅威が生じるにしても、政府が破壊戦争を仕掛ける場合、通常、攻撃は戦略上脅威となる地域に限られる。レッセフェール社会は政府がないので、帝国主義的な脅威を与えず、破壊戦争の標的になる可能性は低い。外国政府は自由領土を併合して富を得ようという気になるかもしれないが、その場合、破壊戦争というよりはむしろ征服戦争を仕掛けてくる。征服戦争の場合、核兵器よりはむしろ通常兵器が使用され、その使用も制限されるため、荒廃は遥に限られてくる。この理由は簡単で、征服者にとっては、瓦礫や死体からより、工場や奴隷からの方が遥に私腹を肥やせるからである。
戦争が及ぼすレッセフェール社会への被害が完全に破滅的ではないと仮定できるその他の理由としては、現代的な戦争における有効な防衛手段が間違いなく確立されて来るということがある。政府がこの様な技術を未だ発明していないという事実は、政府の無能さと住民の安全より帝国主義的権力追求に関心があることを裏付けている。自由市場の効率性と利潤追求の刺激から考えて(もし、販売が許されれば、庶民は有効な護身「装置」を喜んで買う)、今日我々に課せられている戦備より遥に優れた多種多様の護身技術が発明されることは間違いない。
外国の侵略で生じた被害を補償できるだけの支払い能力が保険会社にあるかどうかを定める際の二つ目の因子は、保険会社の資産のあり方である。我々の社会では政府規制で保険業界は身動きできない状態にあるが、それでも保険会社は多種多様の莫大な資産を、広範囲の地域に分散して保有している。大きなリスクを様々な企業に常時分散することで、大規模な損失が突如起きても破綻しないで済むよう工夫も凝らしている。 ハリケーンや竜巻、地震などで生じる何百万ドルもの被害申請の支払いを保険会社が何度繰り返しても倒産しない理由がここにある。レッセフェール社会の保険業界は、我々の経済の下で政府に縛り付けられた同業界に比べ、財政的にずっと良い環境に置かれる。つまり、保険会社を倒産させるためには、侵略者は、社会全体の内、相当な資産を取り除く必要があるということになる。ところが、(政府が無ければ政治組織は一つもないため)外国政府が自由領土全域を一気に襲撃する、或いは、襲撃したとしても領土のほぼ全域を壊滅させる、と想定しなければならない理由はどこにもない。外国の襲撃で被る損害申請を支払い切れる程保険会社が財政的に余裕があるという絶対的な保証はどこにもないが、支払い切れる確率は非常に高い。
レッセフェール社会の実際の防御は警備企業(純粋な警備業と保険業の子会社の両方)が担当する。こうした防衛は加入者に脅威となる(もしくは脅威となる可能性がある)国を打倒するのに必要な兵士や物資の全てを装備する。このような防衛の装備には、歩兵や諜報員からレーダー網、迎撃ミサイルに至るあらゆるものが含まれ、外からの脅威に応じてその規模と種類は変化する。
最新鋭の軍事装備の開発と維持には巨額の費用がかかるため、超巨大企業を除くおそらく全ての保険会社は、競争の圧力の中、可能な限り良質な防衛を低価格で提供するため、労力や資源を共有するようになる。同様の理由から、効率面でも保険会社は、協力し合える優秀な警備企業数社からサービスを購入することで、外国からの侵略に必要な防衛を賄うことになる。利益の上がるこのような事業を任された警備会社の同業者間の競争によって、非常に優れた強力な防衛体制が築き上げられることは理論的に保証できる。今は予想が付かない技術革新で防衛体制の安全性と有効性も絶え間なく改善されて行く。自由市場の作用(この作用は常に需要を満たす方向に動く)で自然に生まれてきた有効性と効率性の素晴らしさに比べれば、政治活動、利益誘導、裏面の策動、権力掌握が日常茶飯事の官公庁が堅苦しい事務手続きで延々と時間を割いて築く政府の防衛体制など話になるわけがない。
経済の「民間部門」が自由企業防衛体制の経費を賄えることに疑いを持つなら、次の二つの事実を考慮に入れるべきである。一つ目は、お金の出所は「公共部門」も「民間部門」も個人の生産した富であり、どちらも同じだということである。「公共部門」はこの富を力尽くで取り去って(合法的強盗)いるだけで、元の資源規模を拡大させるわけではない。 政府は経済を税で蝕み規制で縛るため、防衛資源の全供給量を実はむしろ縮小させる。二つ目は、政府は、その本性により、防衛費を本来より遥に高額にしてしまうということである。強要的な独占は暴力で収入を確保し、競争を恐れる必要もない。酷い浪費と非効率性は全ての強要的な独占の共通の難点であり、従って、防衛の経費は跳ね上げられる。政治家の強欲と官僚の権力は世界中隈なくはびこるため、高額な軍事費は更に何倍にも膨れ上がる。こうしてできた軍事力の主な結末が侵略行為や戦争そのものになる。つまり、「民間部門」が住民を防衛する経費を賄えるかどうかを心配する位なら、むしろ、恐ろしく危険な政府の強要的な「防衛」(現実には政府の政府のための住民による防衛である)費に住民が後どれだけ持ちこたえられるかを心配すべきであろう。
外国の侵略をレッセフェール社会が防御するための費用の大部分は、当初、商業と工業が担うことになる。これは、守るべき投資が、郊外に小さな家を所有する人のより、工業製品の生産工場の所有主の方が、額で遥に上回ることに起因する。外国の軍事力が襲撃する脅威が本物になりかければ、事業主はこぞって外国襲撃の損害保険に加入しようとする。これは火災保険に加入しなければ短期的には節約になるにもかかわらず、それでも人が火災保険を購入する理由と同じである。これがもたらす効果で興味深いのは、最終的に防衛費は社会全体に転嫁される傾向があるということである。なぜなら、諸経費や別の経費と同じように、防衛費も消費者が購入する商品の価格に上乗せされるからである。従って、近隣の人々が支払う防衛に寄生的に依存することによって、自己防衛のお金をケチる「ただ乗り」の人の話を憂慮する意見に根拠はなく、それを憂慮するのは自由市場体制の仕組みを誤解している表れなのである。
外国からの侵略が本当に始まれば、外国侵略の損害保険の主な顧客である工業と商業が自由領土を統一させる役割を担うようになる。例えば、ミシガン州にある自動車工場が、原材料の拠点をモンタナ州に、部品工場をカナダ、オンタリオ州に、支社工場をカリフォルニア州に、倉庫をテキサス州に維持し、代理店を全北米の各地に構えていたと仮定する。ミシガン州の工場の経営にはどの施設も欠かせないため、経営者は重要度に合わせて防衛措置を施しておきたいと思う。また、施設の所有者や経営者も各々自身の事業を心配して、自分の事業が依存する事業所にやはり措置を施す。すると幾重にも重なり合う巨大な防衛体制が築かれてくる。分散して資産を保有し広範囲の市場を持つ保険業界がこれにからむことで、この防衛網は計り知れない強度を発揮する。大抵の人が思い描くのは、このように連結し合う重複した防衛網体制にとは程遠く、政府に守られない街角の店舗や人々が押し寄せる敵軍にあっけなく征服されて行く様子である。
ここで注意すべきなのは、こうした防衛網は、個人的に守りたいと特に思わない物事に対して、自衛行動や奉仕金の義務を誰にも課していない、ということである。今日政府が敷く人為的な領土内での集団主義的防衛体制下では、メーン州を防衛するために、たとえその事に何の利害関係がなくても、カリフォルニアの人までもが、財産やよりによっては命も犠牲にすることを強制させられる。と同時に、カナダ、ケベック州から数マイルにいる人は、川の反対側にいると言うだけの理由で、自分の政府が行動を起こそうとしない限り、ただ手をこまねいて見ていなければならない。政府の防衛は集団主義的なため、政府のその他の行為と同様、どうしてもこうならざるを得ない。自由市場の防衛体制では、自分の財産を守りたいと思う限り、人の居場所とは無関係に、それぞれの人が自分の行動を採る。政府という名の暴力団が取り仕切る集団主義体制を防衛するために犠牲を強いられる者は誰一人としていない。
自由市場の防衛体制では侵略者が降伏宣言を勝ち取るのも非常に難しくなる。レッセフェール社会には戦争を仕掛ける政府がいないので降参する政府もいない。防御する人々は自分の利益になると思わない限り戦わないが、こう思う限り戦い続ける。合意文書は署名した当人以外誰も束縛できないため、保険会社や警備企業でさえも降伏の交渉相手になりえない。侵略してきた外国がこの様な状況に突き合わされたとき何をするのか推測するのも面白い。
自由市場の防衛体制では、軍事規模と軍事費は必要に応じて自動的に調節される。マスコミや保険の広告から世界情勢についての情報を得た消費者は、侵略の脅威が強まれば保険を盛んに購入し、弱まれば買い控える。保険の大量消費者となる商工業の巨大企業は特にこれが良く当てはまる。企業が外国侵略の損害保険に加入する際は、他の全ての手続きと同じように、先見性をよく持ってから購入する。また、競争が防衛費を低く抑え込むため、全ての兵器は必要な防衛のために実際に使用されるか、さもなくば廃棄される。利用されていない武器は維持費を浪費する。軍隊は市場が支える以上には膨らまず、軍隊が実際の防衛の必要性を超えて膨らめば市場が支えようとしない。暴力は労力の非生産的な消費になるからである。
軍事力が内的機構によって加減を受ける軍隊が世界情勢に応じて自動的に応答して行くことには大切な利点がいくつもある。
必要以上の軍備を維持する経済的無駄が避けられると共に、必要な増備を素早く達成できる。
外国を苛立たせ刺激すれば世界中が必ず巨大な帝国主義的軍隊を維持しようとする。そうした危険行為に終止符を打つことで、敵意と緊張の主な原因を絶つ。
様々な介入、侵略、及び、「世界の警察官」のつもりで全世界の人々まで仕切ろうとする結果起こる「野火戦争」を防ぐ。
肥大化した軍事力が独裁者に乗っ取られ、レッセフェール社会内の人々に向けられるような可能性は絶対に無いことが保証される(憲法では到底できない保証である)。
自由市場の防衛体制ができれば、間抜けな政治家や支配欲狂の政治家が報復攻撃の「ボタンを押す」ことで「敵」の住民を皆殺しにする危険性も半永久的に無くなる。自由市場の事業は「ボタンを押し」たところで、権力が得られるわけでもない。それどころか、逆に、途方もない資産を失う。こうしたことから自由市場の警備会社がする軍事行為は防御に専念され、脅威を排除する全ての手段が断たれたときにのみ、攻撃も止む無しとする。
また、他の利点と同時に、自由市場の防衛体制は、不道徳で残忍な徴兵を恒久的に廃止させる。自主的な職業防衛隊は、政府の徴兵する部隊より遥に勝る。まず、徴兵部隊はとんでもない維持費が掛かる。なぜなら、兵役期間を終える大半の貴重な熟練隊員を補うため、新入隊員を常に訓練しなければならないからである。また、当然のことながら、義勇兵に比べ徴兵された兵士は能力も気力も無い。道徳的なやり方こそ実践的であることがここでも見て取れる。
現代的なミサイル戦争に防御の余地なし、と世界の終わりを告げる預言者は多い。実のところ、そのような事態への危険性は、強力な政府を推奨する口実に主に利用される。強力な政府を堅持することでしか、敵の襲撃を抑止できる望みは無い、とか、敵の襲撃を満足に迎え撃つことは不可能である、などと話が持ちかけられる。そして、もう既に数百ものミサイルが世界の様々な地域を標的にしており、近い将来撤去される気配もないので、強力な政府を将来末永く堅持していくことを考えるべきであり、社会を改善するため、例えば自由などという言葉を口にして、急進的な方法を試すような夢を見るのは止めた方がいい、などと教え込む。
成功と安全を命は自動的に保証しないため、核兵器や生物兵器、化学兵器の全面戦争がもし起これば、強力な自由市場の防衛体制でさえ、敗れる可能性はある。だが、政府の「防衛」体制も敗れる可能性があるのは同じである。従って、この話は自由市場の防衛と政府の「防衛」との比較に関しては何も語っていない。
政府の「防衛」について調べてみると、「防衛」が先制的強制力を自国民に働かせる事や、捏造された外国の「危険性」についてのプロパガンダに政府が依存する事、政権が「公」に良いとみなすことに国民は必ず犠牲になる事が分かって来る。自由市場ではそれぞれの人が自分の財産を守ることができ、顧客には先制的強制力を与えず、犠牲も要求せず、非強要的に暮らそうとしない人には罰が下る。政府の「防衛」は不可避的に無駄が多くなり、社会資源が蝕まれる。また、現代的な戦争では国民を守る能力もなく、競争と利潤追求が無いため、技術革新を有効に実践する刺激を欠き、この事態は将来も延々と続いて行く。自由市場の場合、競争が企業にコストを削り無駄を省くことを余儀なくさせる。また、企業が「競争の先手を取る」のに励むことで、競争が技術革新を通して効率性を絶え間なく改善して行く。
政府の「防衛」は無駄と無能よりまた更に酷い事に、実の所、帝国主義の口実にしかなっていない。不必要な軍隊が遥か彼方をうろつきまわり、政府関係者が上から下まで権力を握ろうとひっきりなしに命令して回ることで、政府が国民を「防衛」すればするほど、戦争や緊張が更に煽られる。政府が築き上げる軍隊は他国人にも国内の人々にも危険であるにもかかわらず、阻止するものは他国軍の襲撃以外特に何も無く、いつまで経っても延々と働き続ける。政府軍に他国軍からの圧力が無い場合には、殆ど必ず帝国主義の促進に利用される。ところがもし互角の強さを誇る他国軍にぶつかると、大量虐殺の脅威が常につきまとう恐怖の平衡状態がやってくる。自由市場の企業にはそうした危険な愚行に金を譲る余裕はない。武器を剥ぎ取られた奴隷達を暴力で威嚇するのではなく、自由な人々に価値を提供して顧客を得るのが企業のやり方だからである。
政府は住民を守るようなことは一切やらない。その代わり、戦争を煽り、煽った後、住民の財産、自由、時には命までも、政府のために無理やり犠牲にさせる。このような「防衛」は防衛が全くないのより酷である!
現代型の戦争で使用されるミサイルや化学兵器や細菌兵器が真の脅威であることは確かだ。だが、こうした大量破壊兵器の装備は政府の命令で築かれたものである。また更に恐ろしい新兵器を世に送り出しているのもこの政府である。政府のこのような兵器が世にある限り、自分達を守るための政府がないといけない、と言うのは、腫瘍を今取り除くのは危険だから将来具合が良くなるまでこのままにしておこう、と言っているようなものである!
集団主義3535【訳注】英語の「collectivism」の直訳ではあるが、現代の日本人には馴染みの無い、辞書から抹殺されている用語である。集団主義とは集団を実体のある一種の生命体として捉え、意識や意志を持つかのように考える恣意的な観念を基本とする思想(イデオロギー)のことである。これは、個人の意志が尊重されているか否かを問う倫理学的な言葉であり、心理学的な意味や物理学的な意味では使用されていない。従って、例えば、個人が自分の意志で集団に加わって電車に乗ることなどは集団主義の範疇にない。が交通や医療の分野で無力で無駄で危険と分かるなら、これを適用する最悪の分野は、明らかに、最重要分野、即ち、外国の侵略を迎え撃つ防衛である。戦争やその他多くの破滅的な人の争いは、政府という人為的暴力制度がもたらす当然の帰結なのである!