数百年前まで、周期的にやってくる疫病や飢饉は、人間が生存していく中で避けて通る事のできない人間生活の掟みたいなものであると考えも無しに受け止められ、怒る神の訪れ、或いは、「余剰人口」を淘汰するための自然が採る手段とみなされてきた。今日、平和への希望が熱心に数多く語られているにもかかわらず、多くの人々は、やはり戦争の必要性を考えも無しに受け止めている。少なくとも近未来までは、戦争は必要だと思っている。戦争は人間社会に不可避なのだろうか。もし不可避ではないのなら、なぜ、長年に渡る交渉も、数々の理論も、厳粛な条約も、多国間同盟も、あふれる希望も、敬虔な祈りも、平和をもたらすことができないのだろう。こうした論議や設計や努力が尽くされても、どうして我々の世界には今まで以上に危険で野蛮な争いが絶えないのだろう。
戦争は暴力の範疇であり、暴力の最も根本的な原因は、人間が他の人間に強制力をけしかけることは正しい又は実践的又は必要であるという信仰である。つまり、強要は、人間関係において、許される、もしくは、避けられない、と信じる事である。人が他人へ先制的な強制力を働かせることは実践的で望ましいと思う者は人生を争いで蝕まれる。
とはいえ戦争は暴力の内でも非常に特殊である。戦争とは、「国家間もしくは同一国家内の徒党間の露骨な武力闘争である」(ウェブスターより)ため、可能な限り広範囲に渡って大規模に徹底して荒廃させる強制力の組織的な行使を意味することから、他とは比較にならない程の大惨事を暗示する。そのように注意深く仕組まれた意図的な大量破壊的闘争は、他人に先制的な暴力を振るう事を許容する信仰からだけでは説明が付けられない。何百万人の人々を征服するためにこのような破壊を数百万人もの人々に加担させる人の信仰や制度には、他の因子がまだ存在するはずである。
戦争の原因を追求して、人間の自然な堕落やら「歴史の弁証法的必然性」など、人はありとあらゆるもののせいにしてきた。最近では財閥がやり玉に挙げられている。死の商人、経済的帝国主義、軍産複合体がささやかれ、企業家が市場を確保するためには征服戦争が必要だからだと教わる。
今日の我々の社会では、政府と多くの企業との間にはファシズム的な同盟関係があり、この同盟関係が結果的に軍事-産業-大学の複合体を作り、そして、政府とその帝国主義的政策を安定に維持しているというは、確かに全くその通りであある。ただ、問題にすべきなのは、この邪悪な同盟の原因になっているのは何なのかである。通常は温厚で侵略的でない政府を企業家が堕落させるのだろうか。それとも企業家を政府が堕落させるのだろうか。
軍産複合体は、政府権力が飴と鞭を用いて企業を操ろうとする結果である(企業の操作は政治家が支配を強めようとする努力の一環に過ぎない)。鞭として政治家は、独占禁止法、州間通商法、食品衛生法、薬事法3636【訳注】食品衛生法と薬事法の原文は「pure food and drug laws」(純粋食品と薬品の法律)。ここでは簡単のため、対応する日本の法律名を大雑把に表記した。、認可法、その他の諸々の禁止令や規制を用いる。
何年も前から政府は全てを網羅する複雑で矛盾した曖昧な規制法を意図的に制定しており、企業家のしていることに関わらず、若しくは、企業家が法律をどんなにきちんと守ろうとしても、官僚が企業から罰金や懲役刑を課して企業を倒産させることができるようになっている。この法的ごまかしにより官僚は全業界で事業の生死を思い通りに操ることができ、実効支配している。事業者はこれに対する対抗手段を殆ど何も持っていない。
飴の手段として政治家は甘い汁の吸える大規模な政府委託事業を展開させる。政府が規制で経済を縛り付け、租税で経済を貪ることで、利益が出る大規模な受注は民間から激減する。すると、多くの企業は政府から請け負うか、さもなくば諦めるざるを得なくなる。企業家が事業を存続させるには、儲けを出さなければいけないので、多くの企業は道徳的な問題を顧みず、或いは、愛国的な気持ちで、政府委託をそのまま下請けしてしまう。政府が飴と鞭で全業界を支配してもうかなりの年月が経ち、殆どの企業家は、これが正常で必要と受け止めている(殆どの人が税金は正常で必要と受け止めているのと同様)。
過去百年余りの間、多くの短絡的な企業家がこのようなファシズムのはびこる後押しをしてきた。競争相手を蹴散らして優遇される地位に付く簡単な手段として政府の干渉を受け入れる大実業家らは、市場規制と市場操作を要求する最前線でしばしば活躍する。結局、政府が強制力の手段に使われる。政府を一時的に支配できる人の間では、住民をゆすって優遇措置を得るため、政府を利用するのである。企業家がこの強制力の手段を利用してきたのは確かだが、労働組合も、社会設計者も、人種主義者も、敬虔な宗教家も、他の多くの社会勢力もやはりこの手段を利用してきた。強制力の組織的な制度がある限り、個人も圧力団体も利用する。優遇を直接狙わなくても、優遇を狙う他の者共から身を守るためにも利用する。
今日の政府と企業の間のファシズム的同盟は、確かに侵略的で帝国主義的ではあるが、同盟は無理強いされている。強いるのは政府、そして、法的に武器を剥ぎ取られた庶民から優遇措置をゆすり取る政府権力を利用する人々である。しかし、もし仮に同盟が解かれたとしたなら、帝国主義的で侵略的な悪者はどちらであろう。侵略の原因は企業だろうか。それとも政府だろうか。
企業が政府から引き離されれば、企業は帝国主義的でないばかりか、非常に徹底した反強要性を持つ。商取引する者は破壊から何も得られないどころか全てを失う。征服戦争をしても企業は市場を勝ち取れない。戦争が市場へ与える最大の影響は、人を何人も殺し、貧困に陥らせ、地域全体の経済生活を破壊し、市場が崩壊することである。私営企業は競争のある取引の中で優秀な製品を提供することによって市場を勝ち取る。帝国主義からは何も得られやしない。
戦争で死の商人をしたところで、経済全体としてはやはり利益が出ない。戦争には巨額の費用がかかるが、その負担は直接的にさせられるばかりでなく、消費者の購買力の低下により間接的にも払わせられ、商売に重くのしかかってくる。戦争を支えるために費やされた資金のほぼ全てが、何の経済的見返りもなく完全に失われてしまう。十万ドルの爆弾を爆発させても、出来たクレーターと瓦礫以外何も得るものは無い。従って、弾薬製造業者や供給元の政府が得た利益は、経済全体としては損失に完全に飲み込まれてしまう。戦争で大儲けできる連中がいるのは、政治的なコネがあるからで、自由市場の競争からではない。その死の商人のお陰で、経済全体が狂い出し、全ての生産者が(一般の消費者も同様に)損失を被る。
企業家は商人であり、空襲の最中に商売はできないため、企業は自然と戦争を嫌う。戦争が主に生み出す廃墟や貧困から実業家が得るものは何も無い。ましてや事業者は社会の生産者であり、負担するのはいつも生産者である。
戦争で利益を得るのは政府であり企業ではない。勝戦によって政府は権力(自国と征服した国家の両国民から)、資金(略奪、貢ぎ物、租税)、領土を獲得する。政府が全体主義的であればあるほど戦利品の略奪は激しくなる。たとえ政府が比較的制限されていようとも、勝戦で権力と戦利品を大量に獲得するのは、どこのどんな政府でも変わらない。また、「共通の敵」を目前にして政府の下に国民を団結させるため、戦争はしばしば思想的にも利用される。残忍なロシア人(もしくは、「赤の中国人」や、「ナチ野郎」や、「ジャップ」や、「共通の敵」等々)に制圧される危険があると国民が思えば、国民の不満を抑え、益々国民を犠牲にできる。
戦争をやるのも仕掛けるのも政府である。軍隊を強化して戦闘を大規模に展開させ、帝国主義的な領土拡大をするのは、政府であり私的個人ではない。宣戦布告し、徴兵して、戦争を賄うため税を徴収するのは統治者であり、住人でも企業家でもない。侵略戦争を遂行する事が出来る社会組織は、政府を除いて存在しない。政府が無かったとしても、暴漢や些細な悪党共がうろつく可能性はまだあるかもしれないが、戦争はありえない。
政府の性質からすれば、政府が戦争の供給源であることは驚くに足りない。政府は強要的な独占である。つまり、自国民に先制的強制力を行使しなければ生存不可能な組織である。組織的な強制力の上に成り立つ制度であるため、必然的に侵害行為を犯し紛争をけしかけてくる。究極的な見方をすれば、誰が統治するかの問題で戦争になるのであるから、戦争は全て政治闘争なのである。
従って、戦争を撤廃するためには、他人に先制的な強制力を振るうことが出来ないよう、人間の性(さが)を変えるといった無理難題に取り組む必要はない。政府を撤廃すればいいだけのことである。だがレッセフェール社会の形成によって戦争が直ちに無くなるわけではない。レッセフェール領土がたとえいくつかできたとしてもやはり無理である。有力な政府が世界に一つでもある限り、戦争の恐れは消滅しないため、自由領土は守りを怠れない。だが文明世界全体にレッセフェール社会が広がれば、戦争は消えて無くなる。自由領土をどこかで樹立させた後、戦争の無い無政府環境を全世界にもたらすことに、現実味はあるのだろうか?この質問に答えるためには、レッセフェール社会が世界に及ぼす影響を考察してみる必要がある。
レッセフェール社会は、政府が持つような「外交関係」を世界のどの国とも持つことができない。なぜなら、それぞれの住人が主権を持った個人であり、自分の事しか語れないため、その社会集団に付いては一切責任を負えないからである。このことにもかかわらず、レッセフェール社会は、その単なる存在自体が、全世界に重大な影響を不可避的に与える。
自由の力によってレッセフェール社会は、科学研究、工業の発達、金融体系の三つの経済領域において、どのような政府社会よりも優位に立つ。言うまでもなく、より多くの人々が非強要的な利益を追求し、勉学によって報いを実現させ、そうして稼いだ財産を完全所有するに連れ、知的な努力は益々研究に注がれ、更に多くの事が新発見される。市場は生産的な研究のみに報いを与えるため、政府が支援する研究に性質上つきまとう莫大な労力と資源の無駄使いを自由社会は避けることができる。政府の僅かな干渉でも市場は歪むため、自由は工業発達の一番の刺激でもある。金融体系では、政府通貨が長期に渡って問題にならないことはまずありえないし、金融が管理されればされるほど、問題は複雑、且つ、深刻になる。現代的な工業化の進んだ社会において、他の銀行と競争し合いながらお金を発行している自由市場の銀行ならば、政府が絶え間なく関与するその馬鹿げた破滅的金融政策を敢えてやってみようなどと思いも寄らないはずである。これは過言ではなく、殆どの政府がやるようなかたちで自由市場の銀行が信頼のない通貨を発行すれば、財政的にもっとしっかりした他の競争相手にすぐに客を奪われ、あっという間に淘汰されるからである。
端的に言えば、自由な人々は、税を取られ、いじめられ、規制され、制定法で縛られ、政府に囚われ、ある意味奴隷として暮らす人々より強い経済を作ることができ、作ることになる、ということになろう。今日でもこの原理による作用は、政府に管理された全体主義的な共産主義体制国家群と奴隷度の比較的低い西側諸国との間の経済格差に現れている。ソビエトのプロパガンダや西側にいる国家主義者の賞賛とは裏腹に、完全に誤った経営や、深刻な供給不足、低品質商品、農業危機、重大な失業問題、その他様々な混乱でソビエトの経済は慢性的に悩まされている。ロシアの「急速な経済成長」は捏造に過ぎない3737確認は、ユージーン・ライオンズ著「Workers’ Paradise Lost【労働者の天国失われる】」で参照されたし。。実際、西側諸国、特にアメリカ合衆国の莫大な援助3838この途方もない援助の資料としては、ジョージ・N・クロウカー著「Roosevelt’s Road to Russia【ルーズベルトのロシアへの道】」を参照されたし。無しに、共産主義的圧政がまがいなりにも存続し得たというのは極めて疑わしい。
アメリカ経済は、政府介入で台無しにされ、「国際援助」の名目で何十億ドルも巻き上げられても、それでも脆弱なソビエト連邦の経済を優に上回る。ソビエトは、米政府の何遍にもわたるプラント輸出、大量の戦略物資、大勢の技術者、何隻もの食料援助を受け入れてきた。その上、ヨーロッパ諸国を何ヶ国も征服している。にもかかわらずソビエトはまだこの有様である。アメリカとソビエトの経済の比較は、自由のない経済と比較したときのレッセフェール経済の壮大な優位性を暗示する。それから、軍事力は経済力に必然的に依存するということも忘れてはならない。
レッセフェール社会は、外交政策を策定し実行する政府が無いにもかかわらず、その経済力によって、世界各国に絶大な影響を与える。まず、自由領土の存在は世界各地で頭脳流出が、今イギリスが憂慮する頭脳流出など比較にならない程の規模で起こる。自由のお陰でレッセフェール社会の経済が爆発的に拡大するに連れ、知能と能力を持った人の需要が急速に伸びる。その人材に対して、政府に支配された社会と比較して、給与、働く環境、有能な人と交流する機会、そして(最も重要な)自由に恵まれているという面でより良い条件を、レッセフェール社会が提供するようになる。各国の生産者がレッセフェール社会に住みたがるようになり、多くの生産者は自分ばかりでなく職場全体を自由領土に移そうとする。たとえ送料や給与が多少高く付いても、税や規制を逃れることで、より収益が出ることが分かるからである。自由領土でのそうした事業の流入により、有能な労働力の需要が高まり、給与が上昇する。生産者や産業を失った各国がレッセフェール社会が生産する物資に必需品を依存するようになれば、各国は侵略をためらうようになる。
有能な人材が好機を求めて数千人もレッセフェール社会に逃れて行くのを金で釣って引き止める程、各国政府に余裕はない。もし引き止めたいと政府が思うのなら、現在の鉄のカーテンの国々がするように、力尽くでやるしかない。鉄のカーテンの国々の経験で分かるのは、有能な人は束縛状態では能力を満足に発揮できないということである。頭脳流出がこれ程の規模で起これば、世界各国が深刻な財政赤字を抱える。ところが、政府が採れる道は、制限的な手段を講じるか、自ら政府を解体するか(政府解体は、政治の質からしてありえそうにない)に限られる。制限的な手段を取れば、国家を圧政に向かわせるため、国は更に荒廃する。
自由領土の恵まれた機会が知れ渡るに連れ、世界中の国々が財政赤字を経験するのは、頭脳流出からだけではなく、資本流出もその要因になる。投資家は常に自分の資金を最小のリスク(将来の不確定さが最小)で最大の収益の上がる投資先に預けようとする。政令や規制を出来心で発令できる官僚の権力は、将来の不確定さを増大させる要因になっている。このため、レッセフェール社会の企業は世界中の投資家にとって最も魅力ある投資先となる。頭脳流出同様、資本流出は各国の犠牲で自由領土を繁栄させる。これも同じ様に、政府が採れる道は、制約的な法を制定するか、自ら政府を解体するかに限られる。制約的な法を制定すれば、国の経済が更に悪化する。
レッセフェール社会の存在は政府の金融体系にも重大な影響を与える。政府は通例、通貨膨張に携わることで自国通貨を徐々に弱めさせている。(政府が通貨膨張をやるのは、経済に通貨を余分に出回せることで、政府が収入以上に出費できるようにするためであり、結局は、出回っている通貨の単価を僅かずつ盗み取っているのであり、つまりこれは一種の卑劣な税なのだ。)税負担を重くするに連れ、通貨膨張によって国民の反対をかわしたいと思う誘惑に勝てる政府はまずない。そして、通貨の相対価値を固定化し、財政危機にはそれぞれの政府が救済し合うことを義務化させる国際条約によって、不安定な自国通貨の下落をできるだけ長く食い止めようとする。世界中の他の全ての主要通貨も膨張させられるという事実のみが、ある意味、膨張された通貨を保護していることになる。しかし、レッセフェール社会の通貨は、市場法則に晒されているため、膨張させられない(膨張された通貨は安定通貨によって自由市場外に弾かれてしまう)。資本家は当然、最も安定したお金で資産を保持したいと思うため、政府発行通貨を売り自由市場通貨を買う動きに出る。事実上の自国通貨価値引き下げに加え、この動きで不安定な政府通貨は更に弱められることになり、ほぼ完全崩壊の財政危機が国から国へ連鎖反応的に起こる可能性もある。従って、各政府は安定通貨を維持するか、厳しい制定法の壁で通貨を囲うかの選択を迫られることになる。ただし、通貨を囲っても、自国経済を麻痺させ、崩壊を先延ばしする位が関の山である。
上述が示すのは、大きなレッセフェール社会はただ存在するだけで、世界各国の国内の緊張を増幅させ、各国を完全な自由か圧政かのいずれかの方角へ急速に加速させるということである。レッセフェール社会が各国内の緊張を作ったのではなく、非理性的で強要的な政府政策がとうの昔に作った緊張を、レッセフェール社会という存在が拡大させるに過ぎない。全ての国に存在する不安定な平衡状態をその緊張が一気に崩すのである。
国民と政府との間の摩擦は程度に差異があるにせよどの国にも存在する。比較的限られた政府を持つ国家の場合、その摩擦は大したことが無いかもしれないが、全体主義的国家では、それは、統治する者と統治される者の間の潜在的内戦に匹敵する3939ユージーン・ライオンズ著「Workers’ Paradise Lost」の105頁目参照。自由は実践的であるにもかかわらず享受されていないことに庶民が気が付けば、その摩擦は強まる。政府が厳しい法律を新しく導入してもやはり摩擦は強まる。特に、国民へのプロパガンダが事前に充分されないまま法律が突然通されると摩擦は激しさを増す。繁栄するレッセフェール社会の存在で自由の実践性が証明されると、諸政府は厳しい法律を不用意に導入せざるを得なくなる。すると国民が意識的に反政府的になり、国内の緊張は更に一層拡大する。
レッセフェール社会の繁栄によって、政府は不必要なだけでなく正に有害であると実証されることで、政府の神秘的な高潔さが国民の目の前で崩れ去る。政府という制度が現代まで生き残っている理由は、政府に襲われても追随し、それでも追随するのは政府が無ければ混乱すると信じているからである。政府は必要であるというこの殆ど全世界的信仰が圧政の強力な盾なのである。一旦完全な自由の本性が世界に知れ渡り、完全な自由の実践性が実証されれば、政府は国民から尊敬を失い、政府が力尽くで喚起する以上の忠誠はもはや得られなくなる。人間の生活と社会を形作るのは結局思想なのである。
しかし、政府の縮小を要求する声が盛んな時でも、政府公務員は権力も地位も簡単に諦めたりはしない。政府が弱く自由の思想が強い国々では、人気の世論で政府の規模と権力は段階的に削減され、最終的には、象徴化し消滅して行くかもしれない。ところが、おそらく大半の政府は反撃に出て、圧政的になり厳しく取り締まるようになると予想される。支配を強めようと励む最中の政府でこれは特に言える。従って、自由のない殆どの世界では、圧政と抵抗と混乱が様々な度合いで混在する社会へと退廃して行くことになろう。
誤解によって広く信じられていることとは裏腹に、政府の圧政の度合いは政府の弱みの程度なのであり、経済学的にこれが特によくあてはまる。全体主義的な政府は、外見上は強面で壮大な結束を誇示していても、内側は無能と、無駄と、汚職と、恐怖と、信じ難い欠陥経営で腐り切っている。これは政府支配という性質が正にそうさせるのであり、必ずそうなるのである。
政府権限の源は強要であるため政府の支配は力による支配である(市場権限の源は商品と商品供給の出来の良さである)。国が全体主義的になるに連れ、国民は、将来の報いを求めようとする動機からではなく(利潤追求)、より強い恐怖によって動機付けされるようになる。自分の生産能力で報いの恩恵を受ける自由が無ければ、人は政府が突きつける銃の恐怖以外生産する理由が見つけられない。ところが、脅しは脅しの道具で傷つけられるのを避けるための必要最低限の行動しか喚起せず、しかも、脅す者が絶えず見張っていなければならない。
威嚇は、それよりもまだ酷いことに、革新的なひらめきを人から奪い去ってしまう。人の心は本人にしか所持できない。つまり、考えを生み出す知能に命令出来るのは本人しかいない。恐怖には麻痺が伴う。人に革新的な考え方を生み出させようとさせるだけの脅しをすれば、普通恐怖に脅え過ぎて冴えた考えが浮かばなくなる。独裁制が科学者や他の知識人に特別な自由や報酬を許可する特権を与えざるを得ない理由がここにある。自由な考えで統治者を僅かでも批判する知識人をかくまうのは圧政にとって極めて危険なことであるにもかかわらず、独裁者はどうしてもそうしなければならない。知識人に自由を与え過ぎれば反抗的になり、制限し過ぎれば考えを生まなくなるため、どのような独裁制も危険な綱渡りが絶え間なく要求される。これは知識人ばかりでなく数百万人もの一般の勤勉な労働者にもある程度当てはまることである。一人一人の「どうしたらもっとうまくできるのだろう」という小さな取り組みは経済成長に大きく貢献する。
自由が恐怖に置き換えられれば、やる気が失われることに加え、政府の法令や規制が経済を縛り付け経済が窒息する。経済に干渉がなければ、市場は常に平衡状態に向かう。つまり、供給不足と過剰供給を取り除き、経済的な無駄が最小限になる状態へと向かう。政府制御によって市場が干渉されるようになると、市場は歪められ、経済的現実に反応しなくなる。すると、不足、過剰、遅れ、無駄、行列、配給手帳、高値、劣悪な商品が日常となる。
中央の計画経済でもこうした問題は解決しない。人が経済を制御することは可能であるという主張は馬鹿馬鹿しいくらい無知な意見である。個人が毎日選ぶ選択肢を自動処理するためのデータ量は、史上最大のコンピュータでさえ話にならないほど膨大であり処理不能である。 また、この数億人分のデータは、それぞれ異なる個人の価値基準系のデータから成るため、品々を一つのコンピュータで計ったり比べたりすることなど到底できる筈も無い。「中央の計画経済」は、市場が通常採らないような形態を無理やり採らせ、市場が自己修正するのを力尽くでで阻止するため、市場を歪めることにしかならない。計画経済が機能することなど全くもってありえない。そして計画が周到な程、経済は歪んで硬直化し、国家は弱体化する。
圧政は、その性格により、非生産的であり、国内を緊張で充満させる。例えば、ソビエト連邦は、国力のほぼ全てを外国支援に依存していた。外国支援は、比較的奴隷度の低い西側諸国、特にアメリカから、莫大な規模で施されていた。圧政度の低い国々の生産者から押収された税金で賄われていた支援が無ければ、ソビエトの独裁制はとうの昔に崩壊していたのだ4040この主張はワーナー・ケラー氏の優れた著書「East Minus West Equals Zero【東引く西は零】」でしっかりと確認できる。。
圧政体制自体無力である。なぜなら、略奪者は生産しないし、生産者は自由でない限り生産できないからである。全体主義国家は比較的自由な国家より当然強いと思う信仰は、道徳と実践が分裂している症状の一種である。もし道徳的な事が道徳的であるが故に不可避的に非実践的だったとしたら、悪が全ての実践性を味方に付けるため、善は必然的に無能無力になる。
これだけの証拠を示しても、全体主義は国を強くすると頑なに信じる人は、独裁制に密かに憧れを抱いていることを露にしている。そのような憧れは、自由を享受し自分自身の能力に頼って暮らす自信がない自立心を欠く心理の表れである。自立心を欠いた人は、自分自身で決定する責任を逃れるため導かれ監督される事を切望しているか、そうでなければ、自分自身にない能力を自分に言い聞かせるため他人を支配することに憧れを抱いているのである。
圧政が必然的に軟弱であることから、レッセフェール社会という存在によって世界各国の国内にある緊張が、完全な自由か無能と混乱かのいずれかの方向にそれぞれの国を否応なしに動かして行く。と同時に、真の自由は可能且つ実践的であるという輝かしい考え方によって、自由を要求する運動が世界中の国々で一気に盛り上がる。庶民が非理性的な愛国心を失うに連れ、政府は支持を失う。このようにして、レッセフェール社会は、単純に存在するだけで敵を弱体化させ、敵陣内で自由思想の促進を招き、政府を更に解体して、新たな自由領土を誕生させる。
レッセフェール社会はその存在という受身的なかたちで世界中に自由を広めるだけにとどまらず、貿易を通して能動的にも自由を広めて行く。外国人と取引する自由な個人には、外国政府を認める義務はどこにもない。これは別の悪党の正当性を認める義務が無いのと同じである。自由な個人は、政府とは実は何であるのかをよく知っているため、こうした政府から身を守る手段を心理的に心得ている。外国の貿易規制には従うが、個人の利益になると思う範囲でそうするだけであって、得になると分かりさえすれば、無視するなり違反して取引する。政府の終わりは自由の増大と繁栄をいつも必ず意味するため、政府が転覆するのを見ても良心の呵責など抱かない。
自由な個人が政府の支配する領域で商売を行う場合、外国にある自分の資産も他の財産と同じように守ってもらいたいと感じる。保険会社や警備企業は、新事業の機会をいつも狙っているため、その資産の保護を約束する(もちろん、それぞれの国の危険度が反映された約款と料金で)。保護と護衛のサービスは私的な犯罪にしか適用されない。が、もし政府がそれほど強権的でないならば、保険加入企業が国有化される危険性からも保護することができる。また、租税や法規定からの保護でさえ対象になりえる。
近隣のレッセフェール社会の誕生によって経済的な緊張と自由を求める盛んな運動で弱体化した南米のとある独裁小国家を思い描いてみよう。例えば、保険会社と契約している鉱物採掘業者を守るため、有力な巨大保険会社と強力な警備サービスの子会社(或いは、このような会社の企業連合)が、課税や貿易規制、その他の経済的侵害を全て取り除くよう、その小国の独裁者に要求したとしたら、独裁者はどうするだろうか。独裁者が要求に応じなければ武力衝突となり、安定した統治者の座から独裁者は退くことになる。国民は絶え間なく不満をこぼし、反乱がいつ起きてもおかしくない。近隣諸国も同様の問題を抱えていて、この小国家救済のために問題を更に抱える面倒は起こしたがらない。それに保険会社は、政府の正当性をその存在自体認識しないため、被保険者を侵害した場合、国全体からではなく、侵害の命令と実行に携わった責任のある者全員から、損害賠償請求すると宣言する。独裁者はこのような危ない橋は渡りたがらない上、幹部や兵士らも自分の命令に従いたくないことを充分承知している。更に都合の悪いことに、保険会社は国民に何の脅威も与えないため、保険会社へ国民に戦争を仕組ませることさえ独裁者にはできない。
このように危険な立場に立たされた独裁者は、失うものを最小限に抑えるため、保険会社の要求を受け入れようとする(保険会社の経営者は鉱物採掘業者と契約する際、こうなることを先読みして契約に署名している)。だが、たとえ独裁者が要求を受け入れたとしても、この独裁政権は長く続かない。保険会社が鉱物採掘業者への干渉を阻止することに成功すれば、独裁国家の中に自由領土の飛び地ができたことになる。保険会社が政府の干渉から保護してくれることが明らかになれば、レッセフェール社会と独裁国家の両方から事業主や個人が、同様の保護を購入しようと大勢押しかけて来る(この売上の殺到は保険会社に先見の明があったことによる正当な報いである)。この時点で政府が資金と支持を失って崩壊し、国全体が自由領土化するのは時間の問題となる。
このようにして、元のレッセフェール社会は、一旦、保険会社と警備企業が充分強力になると、新たなレッセフェール社会を世界中に誕生させるようになる。こうしてできた新たな自由領土は、自由取引が経済的に強まるに連れ、経営基盤を大幅に拡大させることから、奇襲攻撃で元のレッセフェール社会が潰される可能性を抑えることにもなる。こうして世界中に形成された互恵関係のある自由市場が強さを増し、世界各国が圧政で混乱するに連れ、販売機会拡大を狙う保険業界と警備業界が自由領土の飛び地を多くの国々で生み出すことが益々容易になってくる。
外部からの侵略に対して、レッセフェール社会は幼少期には脆弱かもしれないが、成熟するに連れ実力を急速に付けてくる。同時に世界中の国が弱体化し混乱に陥るため、自由領土の飛び地を樹立させる道が開かれ、政府が全滅し全世界的自由市場が形成させる。世界的自由市場が成熟した暁には、政府は一つ残らず滅亡するため、戦争は消滅する。世界が自由で平和になったこの状態を崩すには、「指導者をよこせ!」の迷信で政府の復帰を要望する人々を世界中で増やすしかない。だが、この惨事を防ぐ守りは固い。目覚めた世界でそのような運動を広めるのは難しいだけではない。レッセフェール社会の正義のある環境では、有能な人は指導者になりたがらず、無能な人は影響力を持たないという傾向もあるからだ。
侵略に脆弱な幼少期のレッセフェール社会の期間の長さと、この期間中戦争が起きる可能性、及び、その戦争がどの程度激しくなるのかについて、今日の我々が予想するのは難しい。例えば、初めて誕生する自由領土の面積と場所は、実力と安全性、そして、拡散して行く割合に大きな影響を与える。言うまでもなく、適度な天然資源を持つ先進工業大国の方が望ましく、小さな孤島の場合、成熟する前に潰されてしまう可能性が高い。
レッセフェール社会が樹立する時期に世界がどの程度経済的に劣化した状態にあるのかも重要な未知数である。諸政府の財政政策は世界を経済崩壊へと導く。できるだけ政府が経済的に衰弱していた方が理想的ではあるが、レッセフェール社会がもし財政崩壊した時と場所から誕生したとすると、財政的な秩序と正気を混乱から取り戻すことからまず取りかからなければならなくなり、そのために貴重な労力が大量に向けられてしまう。
恐らく一番重要な未知数は、自由の性質と実践性についての思想がどれ程普及しているのかということであろう。自由領土の住民のほぼ全員が自由の個人的利益を強く納得しているならば、手強い実力のある社会ができるのは明瞭である。また、世界の主要国家にこの思想が広まれば、各国の国力を損ねることにもなる。思想には国境が無いということを覚えておこう。
世界中の政府は思想の重要性と有効性を完全に軽視する人々に主に操られているため、自由の思想が及ぼす脅威を政府が適時認識できるかはいささか疑問である。その場しのぎの実利主義を基本として暮らす人々にとって、思想はほぼ完全に視野に入ってこない。その上、国家主義は人を幸せに出来ないととうの昔から知られているにもかかわらず、世界中の指導者らは、血痕の残る使い古された国家主義に冷やかな忠誠を誓い麻痺状態にある。思想的情熱を持たないためそこから動機も沸いてこないし、これで支持者を熱狂させることもない。やることといえばありふれた目の前の現状維持に必死に固執することだけ。政治家等を進歩の波は既に置き去りにしている。
人生が安全と成功を自動的に保証しないように、レッセフェール社会が存続し繁栄する保証はどこにもない。だが、自由は奴隷制よりも健気であり、良い思想が一旦広まれば、かき消すのは難しい。自由の思想は、政府の寄生を阻止し、戦争という病を予防する免疫を与える。