自由な人間がどのように政府を解体し、その瓦礫からどうやってレッセフェール社会を築いて行くのか?の議論では、「どうやってそこまで辿り着くのか?」の質問の回答にまだなっていない。政治家が政治家なのは他人に権力を振るい、「偉い立場」に立って敬礼されるのが好きだからである。権力と称賛は政治家の暮らしの一部であり、これにありつけると思えば、真の政治家は死ぬまで(あなたが死ぬまで)戦う。特徴のないどの官僚も、いくつもの権力の器を粘り強く必死で守り、それぞれの司る分野で影響力を広げようと争いうごめきあう。この癌のような巨大権力構造と満足に抗戦するには我々はどうしたら良いのだろう?その権力を叩いて弱体化させ最終的に死滅させるだけの力はどこで手に入るのだろう?
一部の人々は、アメリカという恐ろしい怪力の巨大怪獣を感慨深そうに見上げるような面持ちで、究極的には武力革命に望みを託すしかないと決心する。それ故、革命家を募り、政権を担当する体制へ攻撃的な敵対心を煽り、政府の代表格や警察と暴力的に対峙することを推奨する。我々が窒息死するまで税を取り、規制し、「世話をやく」政府を払い除け、自由を拡大することを、そうした人々の殆どが心から望んでいる。政府がどんなかたちであるにせよ存在する限り真の自由は享受できない、ということにさえ気が付いている人は多い。ところが、暴力革命が必然的に何を意味するのかということまで深く考える人は、皆無と言える位、まず見当たらない。
暴力革命は、大規模な組織立った形にせよ、散発的なゲリラ戦法にせよ、非常に破壊的であることには変わりない。私的財産を破壊したり自分の加害者でない相手の命を奪う行為が非道徳的であるということをたとえ大目に見たとしても、破壊は愚かで近視眼的なのである。破壊は、しばしば、何年もかけて作ったものを瞬時のうちに無にしてしまう。物は一旦破壊されれば、誰の利益にもなり得ない。破壊は全ての人々が利用できる製品の総量を減らすため、社会に住む全ての人の福祉を減らす(当然、減らされた福祉を最初に実感するのは貧乏人で、一番影響を受けるのも貧乏人である)。破壊された物体は再構成できるが、それは時間とお金と知識と身体的努力を払って初めて可能になる。破壊が静まって人が安全と思わない限り、再構成は通常全く進まない。その間、経済(物資やサービスを他人と交換して自分の生活を改善しようとする人達全員が巻き込まれることを意味する)が弱まる。健全な経済を弱めるだけでも充分酷いが、もう既に崩壊まで一歩手前にある経済を蝕めば、それは自殺行為的愚行なのである。
暴力革命的行為は、破滅的であるばかりでなく、「共通の敵」を政府に与え、民を結束させ、結果的に政府を補強する役割も果たす。少数派による政府への暴力は、「国民を守る」という名の下で圧制的政策を強化する口実をいつも政治家に与えてしまう。実際、一般国民は通常、政治家の「法と秩序」の号令になびいて行く。
しかし、これよりもっとずっとまずいことがある。革命の後には指導者が必要なため、統率者のいない社会へ到達するには、革命はとても問題のあるやり方だということなのだ。革命を成功させるためには、革命行為に作戦を練る必要がある。作戦を練るには、その担当者が必要になる。一旦革命が成功すれば、革命に好都合な新たな権力構造へ「その担当者」(もしくは、その幹部、場合によっては、その宿敵)が就く。「その担当者」は、「物事を正す」積もりだっただけかも知れないが、帰結が何であれ、又別の統率者なのである。これに似たことがアメリカ革命4444【訳注】アメリカ独立戦争のこと。で起こった。その結果が今日のアメリカの有様である。
たとえもし革命で新たな統治者を立てることを回避できたとしても、大衆の大多数が要求してくる可能性は大いにある。革命は困惑と混乱を引き起こす。困難と騒乱の最中、大抵の人の頭に最初に浮かぶのが、「こうした問題から切り抜けるためには指揮する人が必要だ!」である。大衆が熱狂的に統率者を要求すれば、統率者は常に現れて来る。人類に権力欲不足はない。その上、大衆が迎える統率者は、大衆の要求に従い「法と秩序を回復する」権力を持った独裁者である。大衆がレッセフェールの自由とは何なのか(自由にはこれ以外の種類はない)分かっていない限り、そして、これが政府の奴隷制度より遥に望ましいということを分かっていない限り、暴力革命が開く道の先には、せいぜいヒトラーのような人間の登場位しかない。こうなれば、物理的破壊の結果がもたらす貧困や経済破綻と、支持を集める独裁国家樹立で、革命前の元の生活より暮らしはもっとずっと厳しくなる。
暴力革命の危険性と欠点に気付いて、レッセフェール推奨者の何人かが、「我々の仲間」を政府に送り込み内側から政府を解体しようと提案している。その「我々の仲間」は、一旦公式な立場に立った途端、権力精鋭の仲間入りをして裏切るような、他人を支配する野望がなく、きちんと政府解体に着手する徳の高い人間でなければ信用にならない、という難点がその提案にはある。ところが、徳の高い人は、略奪者に囲まれながら、自分の生活を犠牲にして、政府の仕事で無駄な時間を過ごす、というようなことをまずやらない。また、ここでも同じ様に、レッセフェール社会の望ましさを民衆が理解しなければ、政府を解体しても民衆は困惑して慌てふためき、指導者を新しく求めるだけである。
我々が政府を全く承諾せず、政府と付き合うのを拒んで、長期戦で攻略するという提案もある。即ち、投票せず、政府助成金を受け取らず、政府のサービスを利用しない、という作戦である。ただ、ここで問題になるのは、法の拘束力や、必要になるサービスの政府専有で、我々が政府に無理やり付き合わされるということである。投票を拒否することは出来るかも知れないが、公道や郵便の使用、納税や徴兵を拒否するのは甚だ難しい。略奪者と付き合うことを拒絶することで、我々の承諾を取り下げる方法は大変有効な作戦である。ただし、略奪者が我々にこれをさせてくれなければ意味が無い。
絶望した人々の中には、戦いは既に少なくともアメリカでは敗戦しているとして、我々の世代の自由への唯一の望みは、政府から逃れられる遠くの離島や大自然に退避して新しい社会を築くことにかかっていると考える人もいる。どの政府の税制にも触れない(そのような場所が見つけられたとして)小さな島に引越し、島を工業化するというのは面白い考えで、収益の上がる事業にさえなるかも知れない。だが、政府を打ち負かすことには全くならない。自由な島が魅力のある褒美になった途端、どこかの政府が占領してしまう。自由島を築くことは勝利への道ではなく、敗北を先延ばすくらいが関の山である。
周到に準備を整え野生に退避すれば、本当に悲惨な社会経済的壊滅の場合には、命を繋ぎ止める隠れ家になるかも知れない。だが、ここでもまた同様に、「身を引く」ことも、政府を負かして自由で安全な世界に住むこととは全然違う。退避とは言葉通り退避であって勝利ではない。
革命、政府を内側から解体する戦略、政府と関係を断ち切る攻略法、及び、「身を引く」作戦を提案する人達が、もし本当に社会を変えたいと思うなら、社会がどうして今こうなのかを理解する必要がある。このことに気が付いていないが故、そのような提案が出てくる。社会は同じ地理的な領域に同時に住む個人の単なる集まりに過ぎない。その中にいるそれぞれの個人の価値や行動は、その個人が持つ考え、例えば、何が正しくて何が間違っているのか、何が自分や他人に有益で何が有害なのか、等によって決まってくる。つまり、全ての社会の慣習、制度、生活習慣は、その社会で影響力のある人々の多数派の考え方で決まってくるのである。人の生活形態がその人の考え方の結果であるのと同じように、社会形態はその社会に普及している思想の表れなのである。
思想は、たとえそれが取るに足らないようなことであっても、ある文化の中で広く信じられると、とんでもないことにもなり得る。例えば、中世の時代、ある宗教で猫は悪魔の使いであると信じられていた。当時宗教はほぼ全ての人々の生活の中で大変重要な位置を占めていたため、社会のほぼ全員が猫を殺す宗教的義務に参加した。猫の数が減るにしたがい、ネズミの数が急増した。ネズミがノミを運び、ノミが細菌を運んだため、黒死病が流行した。これで、ヨーロッパの人口の1/4から1/3が死亡し、イギリスでは二年以内に人口の約半数が病死した。これもみんなその馬鹿げた(表面上無害のように見えても)駄目な考え方のお陰である!
駄目な考え方同様、優れた考え方も強力である。病気は悪魔でも神の意志でも悪い夜風でもなく、細菌によって起こるのだと分かると、黒死病の死亡者数以上の人命がこれによって救われた。この優れた考え方は、我々全ての健康を改善し寿命も延ばした。人には政府の権限では奪うことの出来ない権利があるのだ、と人々が中半気づいてくると、二百年も経たない内に人類史上最高の幸福と最大の進歩が成し遂げられた。
迷信からくる間違えた考え方によって人々は神を恐れて縮こまり、石の祭壇を人の血で染め、生きている子供を犠牲火に投げ込んできた。道理の結果として生み出される正しい考え方は、人を解き放って誇り高く自立させ、人が自然を恐れるのではなく、人に自然を理解させ、神を恐れる狂気で自分の子供を生贄として葬り去るのではなく、自分の子供のためにより良い生活を営もうとさせる。
思想こそ我々の生活と我々の世界を形作る原動力なのである!
だが、思想は目に見えないため、殆どの人はこれが重大だと思わない(たとえそのような考えが頭に浮かんだとしても)。街は見えても、それぞれの建物や道路や公園のために描かれた数多くの構想は目に見えない。電気、自動車、スーパー、芝刈り機、公園の設備等を可能にした数限りない多くの思案も目に見えない。政府を観察し存在を認めることは簡単な事であるが(官僚が無視させてくれない)、政府の存在を可能にする考え方を目で見ることは不可能である。その考え方とは、ある人達が統治すること、即ち、強要的に他人を支配すること、は正しい事である、とする数十億人の頭の中にある信仰、なのである。
人の生活形態と人間社会の形態は、人が何を信じるかに依存するため、思想は世界で最も威力がある。もしある人の生活習慣を変えたいと思ったなら、どのような生活習慣が可能で望ましいのかその人の頭の中にある考え方を変えてやらなければならない。同様に、もし、社会を変えたいのであれば、影響力のある人々の大半の頭の中にある、社会の可能性とあるべき姿についての考え方を、変えてやらなければならない。
食人社会で人が人肉を食べるのは、人間を食料にすることが適切であるとみなされ、おそらくは必要であるとさえみなされているからである。食人を止めさせたければ、人を食べることは適切又は必要である、という定着した考え方を変化させてやればいいだけである。政府社会で、ある人々が他の人々を支配するのは、その社会の大多数の世論形成者が、暴力で人々を支配することが適切で必要でさえあるとみなしているからである。政府を取り除きたければ、支配者によって人々はある程度の奴隷状態に置かれなければならない、又は、置かれるべきである、という定着した考え方を変えさえすればいい。他人を統治する権限は誰にもないという考え方が大勢を占める社会では、政府は存在し得ない。統治支配しようとする野心家が命令に従う兵士を充分に召集することができないからである。
定着している考え方を変えることで社会を変えるられるが、社会を変える方法はこれしかない(その社会で生きる人々に定着している考え方に沿った生き方を力尽くで禁止して、全員を困窮させるか抹殺するか奴隷にしてしまうことを除いて)。政府という社会制度は、人々が力尽くで統治されるのは正しいのだ、という社会に定着した考え方からくる結果の具体例に過ぎない。今のところ、アメリカ政府は大半の住民から承諾と支持を得、少なくとも無関心に受け入れられている。大半の人間が政府という社会制度は正しい、或いは、必要だと信じている限り、政府は居続ける。住民が自由の望ましさと実践性を理解する前に政府が壊されれば、新たな政府が瞬く間に築かれる。文明社会を築くためには統治されなければならないと住民が信じているからである。この考え方を変えない限り、自由な社会は絶対に現れない。
我々の文化にある考え方を変えることによってレッセフェール社会をもたらそうと言うと、数世紀もかかる難しい課題のように思える。しかし、世論形成はそれほど難しいことではない。どんな社会でも、自分独自の考え方を持った人々の数は非常に限られ、おそらく人口の1〜2パーセント程度である。これよりやや多めの人々が伝達役を果たして思想家の考え方を大衆に広める。民衆の大多数は、権威のある人の言葉や団体の意見を殆ど何の考えや疑問も無しに受け止め、身の回りにある文化から単純に概念を吸収している。社会に普及した考え方を変えるには、極少数の思想家の考え方を変える必要があるのみなのであり、これが済めば後はただ黙って眺めているだけで、評論家、作家、編集者、先生、その他「影響力のある人達」が広め、山びこのように響き渡って行く。思想家こそ社会が進む将来の舵を切る。大統領や他の政治家は舞台を動き回る俳優でしかなく入ってきた台詞をそのまましゃべっているに過ぎない。
その上、同世代の思想家の意見を変える必要さえない。今の世論形成者は古臭い無知で冷淡な過去の遺物である。かつては、住民を見守り、経済を制御し、恐怖、不足、空腹、ポルノ、お酒、麻薬から守り、「公共の福祉」を保証する父親的存在の巨大政府が新鮮で頼もしく思われた。だが、今日、福祉や社会主義、道徳を強制することを良しと信じた結果、貧困、奴隷、紛争がもたらされていることが誰の目にも明らかになりつつある。そういう過去の思想家は、我々の問題を解決することに失敗したばかりでなく、問題を何倍にも増幅してきた。その結果はあまりにも無残になりつつあるため、彼らの影響力も時間の問題となってきた。今度は新種の思想家に道を譲らなければならない。まだあまり影響力のない(多くは若年層の)リバタリアンは数年も経たない内に勢力を伸ばして来よう。将来の思想家はもう既に自由の必要性と意味に気が付き始めている。レッセフェールを理解する思想家が充分に増えれば、将来は我々の手中にある!
我々が広めるべき思想はとても簡単に理解できる。それは、政府は不必要な悪であり、自由は最も実践的な最善の方法である、といった単純なことである。
大惨事を起こす嵐や不治の病が避けて通れない出来事であるように、政府という制度も生活に付き物なのだ、と歴史を通して大抵の人がそう受け止めてきた。政府についていくらかでも考えた事のある数少ない者達の殆どは、政府は悪かも知れないが、人の性質上、本人自身の福祉のため人は統治される必要がある(!)故、政府は必要悪であると結論した。大抵の人間は考えも無しにこれに追随した。統率者がいると、あやふやな世界での自己の生活と決定に自己責任を負うという重大な義務から逃れられた気がするからである。自己責任の恐れは、自由への恐れと化し、統治者はこれを煽って、召集できる全ての権威、正統性、虚栄、伝統を政府に付着させ、民衆を迷信的で無知なままにさせておいた。自己責任へのこの恐怖は今だ旺盛で、賭博、薬物、売春、誤解を招く包装、「不公平な競争」、銃、「最低賃金以下」の給与、独占、その他無数の想像上の危険から庶民を守ろうと人々が法律を要求する事によく表れている。
だか、政府は誰かが統治することを意味し、統治とは他人を力尽くで支配することであり、これこそ、理解して欲しい人に我々が伝えなければならない事なのである。ある人々が他の人々を統治するときには、奴隷制の条件が存在する。しかし、どのような理由があるにせよ、奴隷制は間違えなのである。限られた政府を唱えることは、限られた奴隷制度を唱えることに等しい。政府は文明社会の必要条件であると主張することは、文明社会に奴隷制度が必要だと主張していることに等しい。政府無しでは本人の自由を守れないと主張することは、奴隷制無しには本人の自由を守れないと主張するに等しい。奴隷制は正しくないばかりでなく必要でもない。同じく、政府という名の奴隷制もやはり正当でもなければ必要でもない。我々は人々に、政府は必要悪ではなく、不必要悪である、と伝えなければならない。
自由は人の正しい生き方なのだから実践的なのである、とも伝えなければならない。レッセフェール社会は機能するし上手く行く。殆どだれもが困惑する社会問題は、自由があり過ぎて起こるのではなく、政府が義務、禁止、課税によって我々の暮らしに干渉するから発生してくる。我々は人々に、レッセフェール社会は混乱に陥ることはない、それどころか、我々が抱えるほぼ全ての問題を解決する、と伝えなければならない。そして、そのような社会がどのように維持されるのか、なぜ問題が解決されるのか、すぐにきちんと示せるようにしなければならない。
自由について伝える方法は無数に存在する。どのようにするのかそれぞれの人が考えるやり方の数だけ存在する。友人に話したり、記事を書いたり、弁論したり、政府の不正に抗議して大規模なデモを組織したり、ありとあらゆる可能性が考えられる。政府には我々を支配する相当な権力があるが、我々が起こす行動を指図する権利は全くない。つまり、無実の傍観者の身体や財産に先制的な強制力を働かせないように注意している限り、適度に安全と判断できさえすれば、どの様なやり方でも政府に逆らえるということである。もしロシアや中国でこれやるなら、やり方はかなり変わってくる来るかもしれないが、アメリカでは言論の大きな自由度に人々が慣れ親しんでいるため、本書の出版などの活動をしてもまだ安全であり、許容されている。
自由の思想を用いた政府との戦いには、興味深い安全因子が自然と組み込まれてくる。それは、政治家と官僚の殆どは、他の人々と同様、思想の重要性を理解していないということである。政治家や官僚が気にするのは、得票と、税金と、政治的駆け引きであり、これらが影響し始めるまでは、自由社会の性質についての哲学的概念のような秘伝は無視され続ける。政治家らが気が付いた時には、自由思想の勢いを抑えるのはもはや既に遅すぎる。人が爆弾を投げれば、警察が捕まえにやってきて、おののいた世間は「法と秩序」を叫び出す。だが、人が建設的な思想を広めれば、鋭い人は受け止め、理解して、語り継いで行くが、権力構造は感知しない。
政府は不必要な悪であり、自由は暮しに最善且つ最も実践的である、とアメリカ人の大半の人(かなりの割合を占める少数派でも構わない)が信じるようになったら一体どうなるだろうと考えてみれば、自由思想を広めることが如何に大切なのか理解できる。政府は大半の人の支持を得ながらも、行政は自らの無能さの重みに耐えきれず、もう既に亀裂と歪みで崩れ始めている。郵便公社は助けを求め、裁判所には、「敏速な裁判の権利」はごまかしの猿芝居なのだ、と記された議事録が残り、刑務所は満杯、道路は渋滞、学校はいつも予算不足、インフレは悪循環を繰り返す。政府は現代社会の複雑さに不適切にしか対処できず、恣意的に見逃さない限り誰の目にも明らかになりつつある。これと平行して、政府専有の分野に私営事業が手を伸ばしてきた。私営の郵便事業会社は定形郵便を取り扱うことが禁止されているにもかかわらず、その商売が繁盛し、私営の仲裁サービス業や警備サービス業も有望になってきた。
数年内に政府は更に一層問題を抱え混乱し、無力さをより一層露にさせてくる。更に多くの度重なる「政府機能」の失敗で、勇気ある企業家が足がかりを築き、高品質なサービスが世間に提供される道が開かれる。もしも数百万人ものアメリカ人が一斉に政府を尊重しなくなったら、どうなるだろう。もし数百万人ものアメリカ人が、政府の本性は、しつこい危険な盗賊と、権力欲狂の官僚と、世間の注目に飢える政治家なのだ、と見抜いたらどうなるだろう。統治される側の承諾で成り立つとされる政府がもしその承諾を失ったら、どうなるのだろう。統治される数百万人が罪な承諾を拒んだらどうなるのだろう。
もし数百万人のアメリカ人が政府を必要無しとみなしたなら、「統治される承諾」は無効になる。すると、数の力で政府と付き合うことを拒んで、不当な馬鹿げた法律をあからさまに違反する事が可能になる。もし五割の国民が、関税、価格制御、最低賃金法、消費税、更に、政令が露骨に禁止する項目も含めた全ての取引規制を無視したなら、官僚に何ができるだろう。もし五割の国民が、政治的規制に関わらず、どんな価格であろうと、どんな条件であろうと、金の延べ棒から煉瓦に至るまで、自分の思い通りに売買したなら、どうなるだろう。もし三百万人の納税者が所得税申告書をいちいち提出するのをやめたら、内国歳入庁はどうするだろう。もし五万人の雇用者が、源泉徴収のため天引きするような面倒を止めたとしたらどうなるだろう4545「最近、私は内国歳入庁の職員と対話した。会話の中で職員が、『内国歳入庁は90%はったりで運営している事にもしこの国の納税者が気付いたとしたら、この制度は完全に崩壊する。』と言って私は驚いた。」これは、1969年10月2日の上院予算委員会質疑を記録した写しにあるオクラホマ州の上院議員ヘンリー・ベルモン氏の発言である。。もしも百万人が徴兵を断ったら軍はどうするだろう。上官が真っ赤になって怒鳴る中、もし連隊のほぼ全員が辞職して家に帰ったら、軍に何ができるだろう。
大半の人が自由を信じ政府の本性を見抜いていたなら、不条理な法律をそれ程の多くの国民が無視するのに、組織は必要ない。一人一人が自分の考えで、捕まらないと思ったことをコソコソと無視して始められる(実のところ、これはもう始まっている)。政府への不敬が増すに連れ、法の無視が次第に拡散し、やがて公然と化する。挙句の果てにはどんな権力も阻止できない事実上の平和的大反乱が成就する。
もし、このような平和的大反乱が起こったなら、政府のできることは撤退かより厳しい警察国家を築くかの二つに一つしかない。もし政治家等が撤退を選択したなら、政治家等は自分等の権力が徐々に崩れ去り、資金と支持の欠乏で政府が潰れて行くのを手をこまねいて眺めているしかなくなる。もし警察国家を選択したなら、元の反乱者らだけでなく残りの民衆からも反乱者が現れ、露骨な反乱を招くことになる。無実の他人に悪事を働いているわけでもなく、明らかにただ単に自分のことに気を使い自分なりの暮らしをしているだけの庶民を犯罪者扱いすることに、世間からの納得は到底得られないと官僚も気づく。圧制的な政策を取る度に、徐々に支持を失って行くのを略奪者は感じ取る。異議の申し立てと職場放棄する職員で軍も警察も職場は荒れ果て、刑務所は満杯で増加する反乱者を収容するのが困難になる。
この様な危機の中では政治家はほぼ確実に発言を右往左往させる。政治家は日常の問題を解決することさえ充分大変な思いをしている。政治家が政策転換を連発すれば、不安定な政府の自己崩壊が余計に確実に加速し、自由への扉が開かれてくる。
レッセフェール社会をもたらすことは可能であるが、目に見えない思想の怪力を通してのみ、これはできることなのである。思想は人が進歩しようとする動機の動力源であり、世界を形作る原動力である。思想は軍隊より強力である。そもそも思想が軍が召集された原因であり、その思想こそ軍が戦い続ける理由だからである(もしこれが真実でなかったなら、政治指導者は大掛かりなプロパガンダなどわざわざやらなくて済む)。思想が支持を集めれば、世界中の銃と対しようとも不死身である。
歴史を通して大多数の人々は政府は人の存在の必須要件と信じてきた。それ故、政府は常に存在してきた。人々が政府がなければいけないと信じてきたのは、指導者がそう言うし、政府はいつもあったし、そして何よりも、不可解で危険な世に誰か導いてくれる人が必要だと感じてきたからである。人類の自由への恐怖は常に自己信頼への恐怖であった。 自己を信頼するということは、どうすべきなのか他の誰も教えてくれない恐ろしい世と自分一人で相手をして行くということである。だが、我々はもはや、恐怖におののき雷神様に奉納する未開人でも、幽霊や魔女から身を隠す中世の萎縮した農奴でもない。我々が学んだことは、人は己れの環境も己れの人生も理解し制御できるということであり、我々が、おしょう様や王様や大統領の指示を仰ぐことなど全く必要無いのである。今や政府の本性は知られてしまった。政府は他の様々な人類の迷信と共に暗い過去に属するものなのである。今こそ人類は成長を遂げ、一人一人の人間が自由の陽光に向け歩き始め、自己の暮らしを完全に支配するときなのである!
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