レッセフェール社会における真の自由の展望は輝かしいものがあるが、そうした社会は一体どのようにしたら実現できるのであろうか。過去数十年間、政府がじわじわと拡大し続け、我々の暮らしのほぼ全ての分野にその毒々しい触手を何本もねじ込めてきた。今や政府行政は我々の社会に完全に浸透し、政府管理が経済に完全に絡み付いていて、今もし国家が解体されたなら、苦痛を伴う深刻な混乱が暫く続くであろう。レッセフェール社会に適用しようとして、こうして起こる問題は、アルコールやヘロインの中毒患者が常用癖を止めようとする禁断症状に類似し、過渡期中の困難と苦痛から、前の方がまだましだったと人々は思うようになる。
だが、今まで通りでいられると思うのは少し考えが甘い。アメリカを含め世界中ほぼ全ての地域が、誰にも防ぐことのできない社会の動乱と経済の衰退の波に飲み込まれている。数十年も続けられてきた政府の「微調整」のお陰で、我々の経済は歪められ障害を受け、衰弱して絶望する貧困層は肥大化し拡大の一途を辿る。見捨てられた貧乏人は、至極当然な怒りを覚え、(だが、大抵、踊らされて)騒動やデモでその怒りを露にする。政府が貧困を救済しようとしても、そしてたとえこれに利権や利益誘導が絡んでいなかったとしても、事態を悪化させることにしかならない。結局のところ政府は既に病に倒れている経済から生き血であるお金を税で抜き取り「救済金」に当てることくらいしかないからである。従って、経済は更に衰弱し、救済しなければならない貧困がまた更に生み出される。政治での約束とは裏腹に、貧乏人の生活は益々厳しくなり、貧乏人の怒りは益々暴力的になって行く。
一方、政府の管理で危篤状態にある経済を治すために官僚が管理をまた更に強化すれば、財政崩壊への歩みがまた更に加速する。集団主義の中毒を治すため更に多くの集団主義を飲ませる血迷った努力を止めなければ、完全な経済破綻が遅かれ早かれやってくる。この種の経済破綻が起これば、政府通貨は完全に価値を失い、国民は街で餓死する。
選択肢はレッセフェールか現状維持かではない。いずれにしても現状維持は不可能である。政府の略奪と権力掌握でとうの昔から始まっている途轍もない社会経済的な力が、現在の秩序を我々の足元から運び去っている。我々には、経済の混乱と圧政を許すのか、それとも行政の圧制と略奪を拒み、それぞれの人間が「自分の事は自分でやる」人生を存分に生きられる自由な社会の建設のために働くのか、という選択しかない。どちらを選ぶにせよ、これからの道は険しい。そこで大切なのは、「最終的にどのような社会に辿り着きたいのか?」である。
レッセフェール社会樹立までどれだけ待つ必要があり、政府から自由への転移にはどのような条件が伴うのかということを予知するのは無理である。というのも、自由の思想がどれだけ素早く広まるのかと言う事と、我々の経済が政府介入にあとどれだけ耐えられるのかという二つの重要な未知数があるからである。
主要諸国全ての経済は崩壊途中の様々な段階にある。税で得られる以上に諸政府が政府財務にお金を送り込む通貨膨張をし始めてからもう既に数十年が経過している。通貨膨張で経済に余計に流通する紙切れの札は、経済を歪め、誤った投資の原因にもなる。これが恐ろしい景気の波の「好景気」期間である。政府は納税者を怒らせることなく、歳入を余分に得ることができるため、政府が好況を嫌がる理由は一つも無い(官僚は「賃金物価の悪循環」や「財閥」や「卑しい労働組合」のせいにすることがいつもできる)。ところが、通貨膨張の波が止むや否や、人々は投資の間違えに気が付いて売りに転じ、「好況」は「不況」に置き換わる。「不況」という再修正の苦痛を避けるためには、政府には通貨膨張をやり続けるしか手立てがない。従って、それぞれの通貨単位の経済上の価値が常時減少して行く。ドル紙幣が金本位制ドルの価格を下回ると、米国民は金の所有を禁止され、政府が「金価格」を人為的に設定したため、最終的には金恐慌が再発した。1ドル紙幣が4枚の25セント銀硬貨の価格を下回ると人々が銀硬貨を収集し始めた。この「硬貨不足」を和らげるため、政府はやむを得ず価値の低い白銅硬貨を発行した。
こうして、あなたのお金の価値は徐々に蝕まれ、あなたの財布には安い白銅と裏打ちの無い紙切れのお札(ふだ)しか残らなくなる(ドルは名目上金で裏打ちされているが4141【訳注】本書が出版されて間もなく、アメリカは1971年のニクソン・ショックで金本位制を名目上においても撤廃している。、米政府は庶民が金を所有することを禁止するので、名目だけで何の役にも立たない!)。偽のお金であっても経済はまだ営まれ続けている。だが、これは単に人々が真の値打ちがあると信じているからに過ぎない。酷くなるばかりの訪れるべき不況を回避するため、政府が通貨を更に膨張させれば、超インフレが始まり、通貨単位の価値の下落が益々加速する。これが価格高騰を呼び、通貨価値が減少し続けてきている事に人々が気づき出す。すると通貨の価値がこれ以上下がる前に、いち早く使い果たそうとして、買い占め騒動が起こる。殆ど価値の無い通貨の代わりに価値の保存に役立つ耐久性のあるありとあらゆる品々を人々が買い漁る。通貨を手放し物資を保有しようと人々が大慌てするため、ドルの交換価値がたちまちのうちにゼロとなる。すると経済に交換媒体が失われ、物々交換に逆戻りする。物々交換は工業化の進んだ経済を支えるには完全に非効率的であるため(物々交換を基礎にしてゼネラルモーターズは給料をどのように社員に支払うのか。食料品店は問屋から食料を買う時どんな方法で支払うのか。)、失業者、貧困、飢餓が大量に発生する。
要するに、通貨膨張政策が原因で起こる不況を回避しようとして官僚がやる努力は、実際にやって来る不況を余計酷くするのである。超インフレの手段を採れば、後に付いてくる来る不景気は、第一次世界対戦直後のドイツのように、国家の金融構造の完全崩壊を招く。ドイツは金融崩壊からかなり早く立ち直ることができた。これは、他の多くの国々が比較的安定した通貨を維持していたためであり、ドイツ人が交換媒体にこうした通貨を利用できたからである。我々が向かっている経済破綻は、立ち直るのが遥に難しい。世界のほぼ全ての通貨はアメリカの通貨同様、何の裏打ちも無い。主要通貨は全てドルと相互に結び付いているため、ドルが崩壊すれば、全てが崩壊する。このような全世界的金融崩壊では、先見の明のある少数の人々が収集する金と銀を除いて、交換媒体を全て失う。ただし、政府が禁止令を交付し、金と銀でさえ闇市で取引しなければならなくなるかもしれない。金と銀が世界経済に充分出回り、物々交換から通貨に移行する頃までには、餓死者は数千万人にも至る可能性がある。政府は紙とインクと約束によって、資金を調達することはできない。一旦自国通貨を潰してしまったら、市場が交換媒体を再構成するまで待つよりしかたがない。
我々の経済状態は官僚と政治家の意向に大きく影響を受けているため、通貨が超インフレを経て最終的な崩壊に至まで、今後何ヶ月或いは何年保つのか、予測するのは不可能である。また、崩壊が1929年〜1932年のように突如起こるのか、それとも、起こる度に悪化する財政危機が何遍も長期に渡って繰り返すのかも予想し難い。確かなのは、酷く膨張されたドルと世界中の他の全ての不安定な通貨が原因で、最後の審判の日がやってくるという事と、審判の日を延期する政策を諸政府が必然的に貫くため、それが本当にやって来た日には、悲劇は遥に悲惨になるという事である。
従って、政府統治からレッセフェール社会へ転移させるにあたり、我々がまず考えるべき事は、政治家の金融介入によって生じる不可避的な経済崩壊で被る害を最小限に抑えることである。これに大いに役立つ策がいくつかある。どの方策も今有る法や規制を撤廃すること、つまり、市場の自由を回復することと関係している。
まずは何といっても、死を迎えるドルに代わる交換媒体を経済に供給すべきである。数世紀にも渡る取引で金と銀は最もよく受け入れられた金融媒体と証明されていることから、できるだけ多くの私的個人にできるだけ大量の金と銀をできるだけ早急に渡るようにしなければならない。金の所有と貿易に関する様々な規制をできるだけ早く取り除かなければならない。個人の所有するドルが財務相に残る金と銀に自由市場が設定する価格で交換されることがアメリカ人の間で激励されるべきである。裏打ちのあるお金の需要が新しく採掘された金で部分的にでも間に合わせることができるように、金採掘に関わる規制は全て廃止されるべきである。
金銭的な金属が私的個人の手に渡るのに伴い、私的個人が造幣を行うことを禁止する全ての法律も終わらせる必要がある。企業家が交換可能な硬貨を製造するのも、掃除機を製造するのと同様に、自由にしなければならない。自由市場の効果はどちらの場合であっても最良の製品を助け詐欺を排除する。
起業家が自由市場の効果以外全く影響を受けない完全に私的な銀行を開業できるよう、銀行業に関する連邦準備制度の独占は破壊される必要がある。政府が通貨膨張を行うのは、連邦準備の機構を通してであり、預金に対して部分準備高しか用意しなくて良いとする特権を銀行に与える法律が、問題を拡大させている。私的造幣と私的銀行によって、通貨膨張、不況、金融恐慌の発生は恒久的に防止される。
私的個人が金を所有し造幣するのを禁止する法規を破棄すれば、ドル紙幣の代わりに金と銀の硬貨、又は、このような硬貨の証券に、殆ど全ての人々が飛びついてくる、と言って批評家は反論する。そうなれば、事実上のドル価格下落を更に加速させ、政府通貨の危機を助長させる、という。しかし、それが起こるのは、確かに批評家の言う通りである。経済危機はいずれにせよやって来る。政治家が既にこれを不可避と化してしまった。もし人々がドルから離れ、真に価値のある交換媒体に移行した後にその危機が起これば、超インフレでドルが崩壊し、金銭となる品が全くなくなるより、遥に楽な危機で済み、遥に早く復帰できる。時々刻々と加速的に価値が下がる膨張された通貨を国民に無理やり押し付けることによって、政府が生み出す金融混乱から国の経済と個人の蓄えを救う唯一の道を、官僚が閉ざしている。ドルは助からない。政府の干渉で既に死に急いでいる。腐敗した全体主義的金融体系を救済するという名の下で、官僚がドルだけでなく経済もろとも潰してしまうのを阻止しなければならない。
上述は、レッセフェール社会への転移が経済崩壊よりずっと前から始まっている事を想定している。もし経済の崩壊が先なら、上述の方策は再建を容易にするが、もちろん経済の復帰は遥に難しく時間がかかることになる。
レッセフェール社会に転移する際、社会の一部として何年も、いや、何世紀も機能してきた多くの政府制度は廃止されて行く。租税は最も簡単な問題で、言うまでもなく、直ちに廃止されなければならない。税は窃盗であり、窃盗を続ける正当性は一切無い。全ての租税の廃止によって、今まで行政に浪費され政治資金に使われてきたお金が生産的な利用に回されるため、経済全体の成長を直ちに促す。あなたの収入がこれでほぼ倍に突然なったとしたら、あなたの暮らしにどのような幸福をもたらすかと考えてみると良い(隠れた税を含めると平均的な人は収入の三分の一以上を税で引かれている)。これと同じ事が全経済に響き渡る。それぞれの生産者の所得が急上昇すれば、消費と投資の両方が急激に伸びてくる。消費は全ての物資やサービスの需要を伸ばし、投資は需要に追いつくために必要な資本構造を調達する。新製品が商品化され、新しい仕事が生み出され、庶民の生活水準が上昇する。租税収入を支出と投資の両方に政府が費やすのは確かであるが、正当な所有者本人が費やす仕方で費やすようなことを政府は絶対にやらないため、市場が歪められる。その上、政府投資は著しく無駄が多く非生産的でもある。例えば、かつて、アメリカ政府は、ロープの原料に使われる大麻は重要な戦略物資であるという理論の下、中米四ヶ国での大麻生産に乗り出し、アバカ製造販売局を創設した。 ところが、政府の作った大麻は品質が低すぎて、政府自身が所有するロープ工場にさえ売ることができなかった。この恥から逃れるため、アバカ製造販売局は一文にもならない大麻を、また別の政府企業、『戦略備蓄』4242【訳注】原文「Strategic Stockpile」は固有名詞であるが、簡単のため敢えて直訳を載せている。に売却した。納税者の負担で倉庫がこうして特別に建てられ、大麻が保存されることになった。毎年、新たに収穫した大麻を保管する空間を確保するため、前年の大麻がかき出され廃棄された。この無駄の総額は納税者に年平均三百万ドルの負担になっていた4343これとその他の政府の途方もない無駄に関しては、ウィリス・ストーン氏のLPレコード「Hayfoot, Strawfoot」(カリフォルニア州ロサンゼルス私書箱46128、キーレコーズ社より)を参照されたし。。
政府の従業員は、働く意欲があるならば、私有企業に職を求めなくてはならない。政府従業員は大まかには、自由市場に需要のあるサービスを提供できる人(先生、司書、秘書、消防士等々)と、政府制度を営むだけで全く役に立たない人(政治家、税務署員、行政記録保存・管理係、軍産複合体の幹部、大統領、副大統領等々)の二種類に分類できる。第一類に属する人々は、自由社会への適応に多少苦労する程度で済む。イエローストーン国立公園の森林警備隊員は、公園が私有企業の利益のために経営されても、自分の仕事は殆ど変わらないと思うかもしれない。制定法の代わりに自由社会に充分順応できるだけの柔軟な考え方ができる若い弁護士や裁判官なら、技能を自由企業の仲裁業者に売ることも可能である。一方、税務署職員や麻薬捜査官として暮らしてきた人々は技能を生かせる職種が無いため、生きて行くためには新たな仕事を探さなければならなくなる。おそらくは、(やり直して高潔に働くため)ゴミ収集や用務員の仕事まで考えてみる必要があるかもしれない。ある意味、他人を支配することを仕事にしてきた罰と見ることも出来る。
レッセフェール社会に移行すると、多くの人々が暮らし方の大幅な調整を迫られるのは確かである。だが、自由市場の環境下では人々は驚くほど効率的に素早く順応して行く。誰かが自分の技能を売りに出したいとき、ある者は商品を製造するためその技能を欲しがり、また別の者はその商品を買いたいと思う。人々が交流し合い相互に有益な交換をすることを、政府の干渉以外止めるものは何も無い。自由社会の誕生で多くの人が大変な思いを一時的にはすることになるかもしれないが、順応期間はかなり短く済まされる。政府に統治されている時より良い暮らしを、最終的には全ての人が営むようになる(恐らく、大統領や大統領補佐官、国防総省将軍などの寄生生物は例外となる)。
ところで、国家債務などの政府の義務はどうなるのだろう。誰が政府の義務を見張ることになるのだろう。 「政府の義務」とは一体何なのか、深く考えてみたことが一度もなければ、このような質問が出てくる。道徳的に見れば、政府とは上手く組織された泥棒貴族である。権力を維持するため、金を借り、特権を与え、個人や団体に約束をする。だが約束を守って借金を支払うお金はどこからやってくるのだろう?それは租税という窃盗からである。民を統治する権力を維持しようとする悪党が抱える借金の返済に当てるため、悪党の被害者が自分の正直に稼いだお金を諦める必要性は道徳的にあるわけがない。政府の義務などと言う類のものはその政府に支配されている国民(もしくは元国民)を道徳上全く束縛しない。政府に自分から進んでお金を貸した人は、悪党共の活動を認め支えたという間違えを犯しており、正義のおきてによれば、この損失は自己負担して切り抜けるより仕方ない。
勿論、政府にお金を「貸し付け」た人の多くは、後の見返りを期待しながらも、選択の余地がない(今のところ国民健康保険税がいい例である)場合もある。また、他のある人々は、自分の意志で国庫に支払っていなくても、政治介入が経済を窒息させ、まともな働き口が無くなれば、政府の福祉事業給付金に頼らなくてはならなくなる。こういう人々は権力掌握する人々の最も悲惨な犠牲者である。だが、この人達にお金を支払い続けるため、力尽くでお金を徴収するのを続行すれば、元々この人達を奴隷化していた元体制を永続させるだけである。新しく誕生したレッセフェール社会の場合、こうした人々は、仕事を見つける(順応期間を過ぎれば職は豊富になる)か、私的慈善事業に頼らなければならない。残酷なように聞こえるかもしれないが、政府を権力の座につかせたまま、経済崩壊し飢餓が大量にはびこり、貧乏人、病弱者、老人らに襲いかかる過酷さに比べれば遥に生緩い。
レッセフェール社会に移行する過渡期の生活保護受給者などが経験する苦労を考慮する場合、こうした人々は、政治家の詐欺を少なくとも受動的に承諾していたという罪を背負っているということを忘れないで欲しい。もし、始めからこうした人々のうちの多くが数十年も前から反対していたなら、政府が誘導する危機を今日に迎えることは無かったのである。誰も反対する者がいないからと言って、間違えを指摘し非難することもせず、誤りに大人しく従う者は、苦難という貯蔵庫の嵩を増やす手伝いをしている。貯蔵庫が決壊し苦難に飲み込まれたとしても驚くまでもない。そもそも苦難は承諾という罪からある程度由来する。
政府の廃止に関する最重要課題としては政府の富と財産をどうするべきかということもある。金銭的な富に関して言えば、政府は何も所有していないので、問題ない(国家債務の数字を見れば分かること)。ところが、政府は莫大な「財産」を、土地、建物、公道、軍事設備、学校、郵便局、印刷所、刑務所、図書館等々、様々なかたちで保有する。これらの物件は管理責任を任されている官僚が一時的に保持してはいるものの、実際には誰も所有していない。「国民」のような集団主義の虚構は所有不能であるため、「公」は所有できない。泥棒が盗品を正当に所有していないのと同様の理由で、政治家も官僚も所有していない。「公の財産」とは実は所有されていない潜在的財産なのである。
政府が保有する値打ちのあるものは実際には誰にも所有されていないのであるから、政府が矮小化するか、過失で誤認するかで、「公の財産」の一部が誰かの所有物になったとしても全く問題は無い。以前は「公の財産」だった物件を保有し、誰にでも分かるように標識を立て所有を主張する者が、その物件の正当な所有者になる。
「公共の財産」を処理する行程は、やってきた人が主張するのをただ認めるのではなく、秩序立てて競りにかけて進められるべきであるという提案がなされている。この提案によると、これで売り上げた資金は、納税者に払い戻されるか、通貨膨張の逆過程を経てドルの価値を回復させるため、単純に焼却される(紙幣や同様の裏打ちの無いただの札束であると想定して)ことになる。
しかし、この計画にはいくつかの反対意見が挙げられている。まずは、「公共の財産」の販売で資金が流れ込めば、大掛かりな横領を防ぐのは殆ど無理に近くなるということがある。資金の流れができると官僚はいつも流れの一部を自分のふところに分流させる手口を思い付く。ところが、官僚や政治家を見張るのは他の官僚や政治家以外誰もいない。二つ目は、競りの方法は巨大企業や大富豪に有利に働き不公平だということである。長い歴史を持ったレッセフェール社会の下でのように、自分の長所を生かして金持ちになり、自分の無能さと不精さで貧乏になるのなら、問題にはならないかもしれないが、政府に統治された我々の社会では、多くの貧乏人は行政による規制や税制で略奪を受けて不幸にして貧乏になっており、多くの金持ちは政治的なコネのお陰で金持ちになっている。
三つ目は、「公の財産」を競りにかけると、生産活動への利用まで長期間の時間を要するということがある。これに時間をかけるとそれだけレッセフェール社会への過渡期を長引かせ、転移がより難しくなる。というのも、生産活動の遅れは、仕事が生まれるのを遅らせ、消費される商品が生産されるのも遅らせてしまうからである。競り市が永久に続かないにしても、多くの物件は見放され、将来誰かに所有されるまで待たなければならなくなる(モハビ砂漠の真っ只中の道路から最短距離で16キロ離れた400反の土地を欲しいと言う人を何人ご存知ですか)。勿論、政治家は、自分の権力の延長を図って、競り市が永続するよう努力する。こうなれば政治家の除去も難しくなる。
道徳的な観点からしても、所有されていない物件を正当に売却することはいずれにせよ無理である。売却は財産処理の一つの方法であり、財産は所有されているものである。もし何かが所有されていないのなら、売却は不可能である。「公の財産」は、公にも政治家にも誰にも所有されていないのだ。
もし「公の財産」が所有を主張しようとする者全ての前に放り出されれば、異なる主張で混乱し、暴力と流血の事態にもなりえる、という批判がある。初めのうちはこれが起こる可能性があるのは確かである。政府の保有する権限が一挙に失われれば、その危険性は特に高くなる。ある特定の富にいろいろな主張が一度に沢山出される事態には、社会は小規模なケースで耐えてきた経験を持つ(ゴールドラッシュが顕著な例である)。初めのうちは混乱が酷く不正もあるが、通常、事態は比較的早急に収束する。今日の「公の財産」のように、所有の主張に有望な潜在的財産が豊富にある時には、収束は特に素早いであろう。そして、そうした揉め事は保護、防衛、仲裁のサービスを提供する私有企業を育成するということも覚えておきたい。この有益な副作用のお陰で、幼児期のレッセフェール社会は健気な社会にすくすくと成長して行ける。
以前「公の財産」だった物件の一部の所有を主張することが誰にでもできるのなら、多くの貴重品が本当の値打ちを知らない不精共や官僚共の手に渡ってしまう、という批判もある。これもまた様々な場面で確かに起こり得る。だが、自由市場は無能力者が不利な立場になる方向に常に作用するため、能力の無い者が財産を有効に取り扱えないのなら、その者はその財産を所有し切れないのである。もし、酔っ払いの浮浪者がシカゴ中央郵便局の所有を主張したとして、この浮浪者はこれで何ができるであろう。この人に郵便局を経営する能力が無ければ、この人はただ単に場所を占拠するか売却するしかない。占拠している間は、他の人が他のシカゴの建物で私営郵便サービスをして利益を上げる。浮浪者が売却すれば、郵便局は生産活動に利用され、浮浪者は手に入れた大金をお酒につぎ込む。どちらにしても、市場は直ぐに最大生産性の状態に達し、浮浪者は元通り一人歩きする。
無能力者は自由市場の仕組みの中で無視される一方、能力とやる気を持つ者は、以前の社会経済的地位に関わらず、富を築く機会を与えられる。財産主張のこの広く開かれた方法は、差別の被害者や貧乏人へ、待ちに待った貴重な機会を与えるばかりでなく、社会福祉や政府事業が除去されたことによる空白を補う役割も果たす。
政府の奴隷制度からレッセフェール社会への転移には、一時的には確かに、困難や混乱を伴うことになるが、人々は自由市場での自由な行動を通して克服して行く。転移が起こる際には、新たな機会が全ての人に訪れる。より沢山のより良い仕事、より良い所得、新しい様々な考え方、発明、事業機会、そして、無数の「成金になる」可能性が生み出される。安定した金融体系が構成されるため、通貨膨張が社会を脅かす可能性は無い。消費者向けの商品が倍増し、生活水準が上昇し、貧困に困窮し荒れ果てる今日のスラム街は過去のものとなる。そして何よりも自由を享受できる。誰も税を取られず、規制されず、他人の基準で暮らすことを強いられない。自己の平和的な個人的娯楽を警察の逮捕状で誰も脅かされない。権力欲に飢える官僚の機嫌に誰も服従を強いられない。
だが、もし我々の社会が政府に引き続き統治されたままならば、経済問題、失業者、犯罪、貧困は拡大し続け、最終的には政府の金融体系は完全に崩壊し、飢餓が広範囲にもたらされると予想がつく。官僚が我々に権力を振るい回し、我々を節介する方法をますます考え出して行くに連れ、政府が許容する括弧付きの「自由」は減少し続けることも予想がつく。
レッセフェール社会には、その社会を樹立するための思考、努力、苦難を捧げるに値するだけの価値がある。なぜならば、自由が我々の社会にある全ての問題の答えだからである。